第15話.この世の幸福を見せてあげる
思いがけない朗報に浮き立つ心を必死で落ち着かせた。
「凌介が出張って珍しいね」
「そうなんだよね〜。先方がどうしてもって」
大変だね、と言いながら、夫の不在を喜ぶ妻なんて、とんだ悪女、いや、性根の腐った女だと思う。だけど、体裁を気にしなければ、凌介の不在は御影との逢瀬の絶好のチャンスだった。
「明後日からだから、申し訳ないんだけど準備お願いしといてもいいかな?」
今はもう夜。明後日と言いながら、準備期間は明日の一日のみだ。普段出張がない故に慣れる機会のなかったパッキングに四苦八苦しそうだが、私はその申し出を二つ返事で引き受けた。
翌日、なんとかパッキングを済ませた私は仕事帰りの凌介を出迎え、「準備バッチリだよ」とご機嫌に伝えた。それは別に、凌介の留守中に御影に会えるぞという下心ではなく、不安だったパッキングが順調に終わったことへの純粋な喜びだった。
完了報告を聞いた凌介は「ありがとね」と私を抱きしめ、すんすんとうなじの匂いを嗅ぐ。その動作に身体が固まった。
「凌介、あの、」
「ん?どうしたの杏ちゃん。そんな動揺しなくても」
さもおかしいとでも言うように、凌介はクスクスと笑みをこぼしながら私の瞳を覗き込んだ。泳いでいる視線を隠すようにニコリと目を細めて「動揺なんて、そんな」と、私を抱きしめる凌介の胸元をそっと押し返した。
「大丈夫だよ。今日疲れてるから、セックスしようなんて言わないよ」
心臓がバクバクする。嫌な気配に胸がざわつく。確実に何かを察している凌介が、私の髪を梳きながら、怖くなるほどの愛しい眼差しを向けて、にじりにじりと私を追い詰める。
もう言葉を発する勇気はない。少しでも弱みを見せれば、凌介はその隙を確実に突いてくるだろう。気づいているの?と問い詰めたいが、それは自殺行為。できるはずもない。そんなピンと張り詰めた空気を壊したものは、明るすぎる凌介の声であった。
「そうだ!ビデオ通話しようね」
「……え?」
聞き慣れない単語に眉根が寄っていく。もちろん単語の意味は分かるが、凌介の言いたいことが分からない。
「ん?俺の出張中だよ!夜に必ずビデオ通話するから、何をしてても出てね」
何をしてても、と凌介の言葉を繰り返した私に、凌介は満足そうに頷く。
「そう。お風呂入ってても、トイレ行ってても、俺に言えない悪い事してても」
「……そんな、監視みたいなこと言わないでよ。それに凌介に言えない悪い事なんて、そんなこと……」
もう、冗談ばっかり言うんだから、と笑えば、凌介は「本気だよ」と誤魔化すことを許してはくれない。
「どうして、そんな」
「どうして?自分の胸に聞いても分からない?」
凌介は貼り付けた笑顔を崩さない。
"こいつ、笑顔で恐ろしいことするからなぁ"
私たちが付き合った当初、もっちゃんが凌介のことをそう評していた。なにも今、そんなことを思い出さなくても。
「さすがに不倫相手を家に連れ込むような恥知らずだとは思ってないからね」
凌介は気づいている。私の秘密に。私の罪に。白日の下に晒された罪は、罰を与えられるのだ。私が受ける罰とは、なんなのだろうか。
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恐ろしいのは、罪がバレたときに安心したことだ。まず初めに思ったのが、"これで別れられるかも"だったのだ。そんな残酷な考えをする自分自身にゾッとした。
出張に向かう凌介の見送りが済んだ私は、すぐさま御影に電話をかけた。通勤中なら出られないだろうが、昨夜から抱えた感情を吐露せずにはいられなかったのだ。
『もしもし?電話なんて珍しいな。何かあったか?』
電話越しに聞こえた御影の声に心底安心した。無意識に涙を流しながら「会いたい」と訴えてしまうぐらいには、気持ちが張り詰めていたようだ。
『……うん。うーん、俺、今日仕事だしな……明後日なら休みだから』
「凌介、今日から出張で留守なの」
まだ話している御影の言葉を遮り伝えた事実に、彼は息を呑んだ。たったそれだけで私の言いたいことを理解したのだろう。閉口した御影は少し迷っているようだった。
『いや、さすがに家に行くのは、』
「お願い、来て。どうしても今日会いたい」
"凌介に私たちのことがバレたの"とは言わなかった。言えなかった。それは正しく私の狡さのせいであった。
不倫相手の配偶者に露見するなど、一番の厄介ごとだ。端的に言えば、それを知った御影の反応が怖かったのだ。くるりと手のひらを返されて「お前のことはただの遊びだから。俺には関係ないから」などと言われてしまえば、立ち直れる自信がなかった。
何が純愛だ。笑ってしまう。結局私は御影のことを信じられていないではないか。信頼していた友達さえも疑ってしまう。それは薄汚い不倫に手を染めたことへの報いなのだろうか。
『ちょっと待って。悪いけど今すぐには返事できない』
私の泣き落としにも動じず、淡々と話す御影が憎らしい。いよいよ"不倫なんかに本気になるかよ"と言われている気になって、腹立たしいやら悲しいやらで、まとまらない感情が洪水のように溢れ出す。
「なんでそんな冷静なの?!」
『……なに突然?なんで一人で怒ってんだよ。意味わかんねー』
本当にその通りだと思うのに。欲しいオモチャを買ってもらえない子供のように、駄々を捏ねたい気持ちが収まらないのだ。
「意味分かんなくない!会いたいって思うのが、そんなにおかしい?」
『俺はそんなこと言ってないだろ?家に行くのがリスキーだっつってんの!分かる?』
「……でも、凌介いないんだよ?実家にも行くって言ってたから、5日間もいないの」
御影が帰ったらきっちり掃除して、痕跡は完璧に消すから、と懇願した私に、御影は特大の溜息を吐いた。絶対に呆れてる。それが嫌というほど伝わってきて、怒りより悲しみの感情が勝りだす。
「御影、」
『分かった。お前の気持ちは分かった。とりあえずそろそろ仕事行かないとだから』
じゃあな、と言ったそのすぐ後、私の「じゃあね」も聞かずに通話が切れた。
シン……と静まり返った部屋に寂しさが募る。本音を言えば、今すぐリダイヤルをしたかった。そして「どうして私の気持ちを受け止めてくれないの?!」と感情に任せて御影に詰め寄りたかった。だけどそれは出来ない。
だって私たちの恋は不倫なのだ。相手が離れたいと言えば、縋ることは許されない。笑顔で「さよなら」と、彼の背中を押して送り出さなければいけない。
初めから分かっていたでしょうに。不倫にゴールなどないのだ。別れるきっかけがなくズルズル付き合うより、マシなのかもしれない。凌介を巻き込んで泥沼化するより、マシなのかもしれない。
不倫にはゴールがないからこそ、進むも止まるも抜け出すも、全てが当事者にかかっている。
私、ここから這い上がれるのかな。あとは堕ちていくだけだと思った底なし沼から、平和で平凡な日常へ、舞い戻れるのかな。
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完全に俺が巻き込んだ形になったもっちゃんと、自分から巻き込まれにきた国枝つむぎと、不倫問題の被害者である俺。
そんな3人が重苦しい雰囲気漂う車の中にいる不自然さに、段々と愉快になってきた。ぶっ、と吹き出した俺に、国枝つむぎが心配そうな視線を寄越す。いよいよおかしくなったとでも思っているのだろう。
「つーか、未だに信じられないんだけど」
様子のおかしな俺を見慣れているもっちゃんは、いつもと変わらぬトーンで杏ちゃんの肩を持つ。いや、肩を持つというよりは、杏ちゃんと不倫がどうしても結びつかなくてまだ困惑しているようだった。
「やー、俺も完全な証拠は掴んでないよ?」
「なら、してない可能性もあるわけだろ?」
「まー、そういうことになるね」
だからこそわざわざ出張だと嘘をついて、広くない車内でこうして自宅の玄関を覗き見しているのだ。何も愉しくはない。悲しくもないけど。謂わば使命みたいなものだ。杏ちゃんを取り戻すため、逃げられない証拠を掴むため、俺に課せられたミッションを熟すには致し方ない作業なわけだ。
「でもさー、ビデオ通話するっつったんだよな?」
「ん〜?そうそう、出張中はね」
「そこまで言われたら、普通家に連れ込まないだろ」
もっちゃんの指摘に国枝つむぎは深い頷きを返す。そんな彼らに一つ言っておきたいのだが、俺は別に、本気でビデオ通話をしたいわけではない。そりゃあ、"凌介にバレた"って焦って不安になって困惑して、今にも泣き出しそうな杏ちゃんとビデオ通話できるのは嬉しいけれど。真意はそこではなくて、それは杏ちゃんを御影の家へ行かせない為の言葉だった。
だって御影の家で会われたら俺が乗り込めないじゃん?2人の世界に酔って、「凌介にバレたの、どうしよう」「大丈夫、俺が守るよ」とかって、悲劇のヒロイン・正義のヒーローぶってる下衆2人ーー杏ちゃんのこと下衆っていうのは、抵抗あるなぁーーの鼻を明かせらんないじゃん?
「もし、徹志さんが来なかったらどうするんです?」
国枝つむぎが素朴な疑問を呈した。
俺はそれに「絶対来るよ」と自信満々に答える。もっちゃんは「なんで言い切れるんだよ」と、怪しむような口振りだ。そんなリスクを負ってもなお、2人で会う人の気が知れないのだろう。確かにそれが常識的な思考だと思う。
だけどね、御影は必ずここに現れるよ。俺と杏ちゃんの2人だけの城に、我が物顔で現れる。だってね、奴らは。
「もう後戻りできないとこまで行ってるから」
彼らは倫理観などとうに捨て、背徳の恋に溺れる自分に酔い、もう前後左右が分からないところまで堕ちてしまったのだ。だからこそ夫の目の前で、彼女(だと思っている人)の目の前で、恥を感じる事なく触れ合い、はしゃぐことができたのだろう。
「あーあ、早く来てくんないかなぁ」
出張は3泊だと告げた。ついでに土日で実家に顔出して来るよ、と付け足した。御影の仕事の都合もあるだろうが、2人はいったいいつ会うのだろうか。俺に気を遣ってくれるなら、出来るだけ早くに会ってほしい。ほら、5日間は、今か今かと待ち侘びながら過ごすにはさすがに長すぎるだろう?
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