第13話.これは終焉への一歩

 御影と初めて結ばれた翌日、パート先で客足が落ち着いた隙間を縫って、酒井さんが私に耳打ちをした。


「ね、ご主人にお礼言っといてね。あのお菓子すっごく美味しかった」

「ほんとですか、良かった。言っておきますね」


 ニコニコと笑顔を返しながら、昨夜2人で帰宅してからのことを思い出した。



 「美味しかったね」「お風呂どっちから入る?」なんて会話をしていた私の視界に、パート先のパン屋の袋が入った。テーブルの上にぽつんと置かれたそれを不思議に思う。朝出掛ける時にはなかったものだ。


「あれ?凌介、もしかして行ったの?」

「ん?あぁ、パン屋?今日の昼にね」


 どうしても食べたくてさ、と、凌介はニットを脱ぎながら答えた。


「杏ちゃんとこのパン、ほんと美味いよね」

「ね、美味しいよね」


 私のパート先はクリームパンが有名であった。日によってはかなり早い時間に完売してしまうほどの人気商品だ。もちろんそれだけではなく、私の好きなクロワッサンも、凌介の好きなカレーパンも絶品で、この辺りでは一番の人気店なのだ。


「杏ちゃんの友達も来たりすんの?」

「え〜?友達?は、さすがに来ないよ」

「そっかぁ。まぁ、微妙に距離があるもんね〜。わざわざ遠いパン屋までは来ないかぁ」

「そうそう。それに私があのパン屋で働いてるって知らないし」


 生活圏が被っていない子に近所の美味しいパン屋の話をしても仕方がないだろう。だから私は"パン屋で働いてるんだ"ということしか言っていなかった。


「あ、そうだ!ついでに手土産持って行ったんだよ」

「そうなの?!わざわざありがとね。みんな喜んでた?」

「ほら、この前御影たちが持って来てくれた、あそこの店のお菓子にしたからさ。喜んでくれてたよ」

「え〜!並んだんじゃない?」


 もう一度お礼を言った私に、凌介は「杏ちゃんのもあるよ〜」と、ショップ袋を掲げた。あの日、御影と国枝さんが私たちに持って来てくれた有名店のスイーツ。凌介は私が「もう一回食べたいね」と言っていたことを覚えてくれていたみたいだ。



「ご主人、バレーしてたって?」


 終わったと思った話はまだ続いていた。パントリーで片付けをしながら、「大学までですけどね。昨日聞いたんですか?」と、何の気なしに疑問を返した私へ、酒井さんは「そうそう」と頷いた。


「この前訪ねて来た男の子も背が高かったでしょう?」

「え、」

「ほら、ちょっと前に来たあのイケメン!高校の同級生とかって言ってた、目が鋭い男の子よ」


 酒井さんが言う"男の子"とは、十中八九、というか100%御影のことだ。もう男の子なんていう年齢ではないが、パート先へ私を訪ねて来た人物なんて御影しかいないのだ。


「あぁ、そうですね」

「あの子もバレーしてたんだってね?ご主人が言ってたわ」


 私の息子にもバレーさせようかしら?だなんてウキウキと話す酒井さんの言葉など、もう入ってこなかった。


「夫が、御影、その私の友達のこと言い出したんですか?」


 凌介が私のパート先で、御影と面識があるはずのない酒井さんに彼の話を持ち掛ける。そんなことある訳ないと少し考えれば分かるのに。案の定酒井さんは、訳が分からないと顔を顰めた。


「?この前来てた杏ちゃんの友達も背が高かったのよ、って、私が喋ったんだけど……もしかしてマズかった?」

「あ、いやいや、全然!なにもマズいことなんてないです!ただふと、なんで御影の話になったのかなぁ、って」


 思っただけで……徐々に言葉尻を弱めながら、冷や汗をかき出した焦る心を誤魔化すように、丁寧に笑顔を貼り付けた。



 


 最悪なパターンは、ここで一人狼狽えて自爆してしまうことだ。私は心を落ち着けて凌介の帰りを待った。よくよく考えれば友達がフラッとパート先に顔を出すなんて、よくあることだ。いや、それは言い過ぎだが、別に珍しくないことは確かだ。


「たっだいま〜!」

「わっ、びっくりしたぁ!お帰りなさい」


 いつもより一際元気に凌介はリビングの扉を開けた。廊下に溜まっていた冬の空気がぶわりと舞い込み、身震いをしてしまう。


「今日のご飯はなぁに?」

「今日はハンバーグでーす」

「やったね〜!ソースは和風がいい」


 凌介の態度を見れば、私と御影のことを怪しんでいる可能性はなさそうだ。だからこそ、私はここで対応を間違えてはいけない。いつものように、日常の会話の中でさらりと、何事もないよ、と話し始めた。


「そうだ!パートのみんな、すっごく美味しかったって。ご主人にありがとうってお伝えください、って」

「お、良かった〜!持って行った甲斐があるね」

「だね。そういや凌介、御影がパート先に来たこと聞いたんでしょ?昨日言ってくれたら良かったのに」


 ハンバーグのタネを捏ねながらあっさりと告げた。じわじわと上がってきた私の体温で肉の油が溶けてしまいそうだが、そんなこと微塵も感じさせないような和かな笑みを貼り付ける。


「あー、そう。言おうと思ったんだけどさぁ、杏ちゃんが友達来たことないって言うから〜」

「ごめ〜ん!私もすっかり忘れてたの。御影に言ってたことも、御影が来たことも」


 ハンバーグを手際良く成形してフライパンにそっと置いた。ジュージューと食欲をそそる音の中に、凌介の「そっかー」という気の抜けた声が落とされる。危機を脱したと小さく息を吐いた。


「あ、杏ちゃん。スマホの画面、下に向けて置かない方がいいよ?傷つくかもじゃん」

「あっ、そだね。ありがと」

「もー。それに、これじゃあ誰かから連絡があってもすぐに気づけないじゃん」


 日常の何気ない会話。私に後ろ暗いことがなければ「いちいちうるさいんだけどー」とでも返していただろうか。それとも「上向きに直しといて」とお願いしていただろうか。そんなもしもの話をしても意味はない。

 ハンバーグを3つフライパンに並べて手を洗った私は、テーブルに置きっぱなしにしていたスマホをズボンのポケットにしまった。この動作を凌介が不審に感じるのか、それすらも分からないのだ。




 リクエスト通りに作られた醤油ベースの和風ソースがかかったハンバーグを咀嚼しながら、凌介は「そうだそうだ」と目を見開いた。


「高校の奴らと、体育館貸し切ってバレーしよっかって言ってるんだよね」

「いいじゃん!楽しそう!」


 楽しんでおいでね、と言おうとした私の声に凌介が「杏ちゃんも来てね」と被せる。


「え?!私も行くの?」

「強制参加じゃないけどさ。家族や彼女も連れて来てもいーよってなってんのよ」

「そうなんだ……じゃあ、行こうかな?」


 私の答えを聞いた凌介は「やった〜!あいつらに杏ちゃんのこと自慢するんだぁ」と、ほくほく嬉しがった。そしてハンバーグを一口。ご飯を一口。頬がパンパンになるほど放り込んだ凌介が、まだ何か言いたげに口をモゴモゴと動かした。


「なに?飲み込んでから言ってよ」


 やれやれと注意すれば、咀嚼していた食べ物を勢いよく飲み込んだ凌介が今度はハッキリと告げる。


「御影のことも誘ってよ。清光の他のバレー部員も呼んでいいしさ」

「え?そんな感じなの?」

「うん。大勢いた方が楽しいし、レンタル料が2時間全面使用でいくらとかだからさ」


 つまりは頭数がいた方が一人当たりの金額が下がるという訳だ。凌介が言うに、別途で冷暖房もかかるらしかった。その話を聞けば、出来るだけ人数を集めたい気持ちも分かる。だけど。


「にしても、急過ぎない?」


 予定は一週間後だと言う。


「日曜だし、大丈夫じゃない?」 

「御影、シフト制らしいからどうだろう」


 そりゃ、凌介のようにカレンダー通りの休みなら急な誘いでも大丈夫そうだが……。いや、私たちの年齢になれば家族でお出かけとかもあり得るので、日曜休みと言えど楽観視はできないか?


「まぁ、聞くだけ聞いてみてよ。あと、国枝さんも」

「……わかった。一応、聞いてみるね」


 うーん、と悩む私に、凌介は軽々しくお願いをする。断られる可能性の方が高いだろと、安易に高を括った私の誘いを、御影は「うん、行くわ」と、これまた軽々しく引き受けた。





 体育館に着けば、ここだけ平均身長狂ってるよね?と思うほど、背の高い人ばかりが集まっている。


「長内!久しぶりだなー!あ、奥さんも!」


 と凌介の周りに集まって来たのは、私たちの結婚式にも参加してくれた見覚えのある人たち。久しぶりに会った友達とキャッキャはしゃいでいる凌介を尻目に、私は辺りを見回した。もちろん、まだかな?と御影の姿を探したのだ。

 しかし御影はまだ来ておらず、それどころか話せる人が凌介以外いないというこの状況に、ソワソワと落ち着かない。そんな私を気にかけてくれたのは、凌介の幼馴染、通称"もっちゃん"だった。


「杏ちゃん、久しぶり」

「あ、もっちゃん。久しぶりだね」

「今日来てくれてありがとな。どうせ凌介が無理矢理誘ったんだろ?」


 軟派な印象の凌介とは違い、もっちゃんは硬派な印象が強かった。凌介曰く「緊張しすぎて女子と話せないタイプ」だったらしいが、大人になった今は和かに対応してくれている。


「ううん、そんなことないよ!楽しみにしてた!」

「そうか?あー、清光のキャプテンも来るんだっけ?杏ちゃん、友達なんだろ?」

「うん、そうなの。あと、リベロ?と、なんとかブロッカー?してた子も来るって」


 その子とは久しぶりに会うから楽しみだなぁ、と破顔すれば、もっちゃんは遠い記憶を引っ張り出そうと「うーん」と腕を組んだ。


「さすがに覚えてないよね」

「顔見たら思い出すと思うけど。あ、でも清光のキャプテンは覚えてたぜ。うまかったしな、あいつ」

「ふぅん。そうなんだ」


 御影のことを褒められて、私の心が擽ったくなるなんておかしいだろうか。


「それに凌介がやたら気にしてたから、割と印象に残ってるんだよな」

「え?気にしてたの?凌介が?御影のこと?」


 そんな話初めて聞いた……とこぼした私に、もっちゃんは「やべ、言わない方が良かったかな。ま、いっか」と直ぐ様気持ちを切り替えた。幼馴染という関係故か、もっちゃんの凌介への扱いは随分と雑なのだ。


「大した話じゃないんだけどさ。『いけ好かない奴だ』って言って、なーんか気にしてたわ」

「え〜、なにそれ。なんかあったのかな?」

「どうだったっけな。ただの第一印象でそう思っただけだった気もするなぁ」

「御影がただただ可哀想だね」


  何かをしたわけでもないのに、そんな印象をもたれた御影に同情してしまう。それはもっちゃんも同じようだが、こちらは理解不能な勘で相手の本質を見抜くところを「凌介らしいけどな」と思ってもいるようだった。


「あ、そうだ、思い出した!『俺と似てる』って言ってたんだ」

「凌介と御影が?えー?似てないよね?」

「と、思ってたんだけど。試合してみて、確かに似てるかもなって思ったんだよ」

「そうなの?どこが?」


 もっちゃんはどことなく言いづらそうに視線を逸らし、「ずる賢いというか、相手を油断させて自分のペースに引き摺り込む、そんなとこ?」と苦笑いを浮かべた。

 それはバレーのプレイスタイルの話なのだろうか。それともそれは、日常生活のどこかしこに点在する癖を指しているのだろうか。そして私は無意識に、凌介の中に御影の面影をみていたのだろうか。


 私の勘は然程鋭くないのに、ゾワゾワと嫌な予感がする。そんな最中、左側の方向指示器をチカチカと点滅させる車が向こう側に見えた。運転席には御影、その横には国枝さんが座っている。御影に会えた嬉しさと、並んだ2人を見た心の痛み、そして凌介と国枝さんの前で御影と関わる緊張感。いろんな感情がない交ぜになった私は、駐車する車体を無表情にただ見つめていた。

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