第11話.見捨ててくれてありがとう

 待ち合わせ場所に着けば、そこには御影が立っていた。


「御影!」

「おー、おはよ」


 思わず駆け寄ってしまいそうな浮かれた足を叱りつけて、私はゆっくりと彼に近づいた。


「早いね」

「もしかしたら、お前も早く来るかもって思って」


 凌介にはリサとマユコの3人と言ったが、リサは他に御影と植田くんのことも誘っていた。本来の待ち合わせまでにはあと30分ほどある。御影が私と同じ気持ちだったことに、思わず頬が緩んだ。


「リサの話ってなんだろーね」

「さぁな。お前、めっちゃ走って来ただろ」

「え、なんで分かったの?!」

「いや、髪ボサボサ」


 意地の悪い笑みを浮かべた御影の言葉に私は即座に反応し、バッと勢い良く髪を押さえた。待ち合わせ場所に着く前に念の為髪を撫で付けたはずなのに、それだけではどうにもならなかったようだ。


「ちょっと、お手洗い行ってくる!」


 一応、と持ってきたブラシが役に立ちそうだ。


「いーよいーよ。貸してみ?」

「?ブラシ?」

「いや、お前の頭」


 そう言った御影は、頭を押さえていた私の手をゆっくりと外させた。そしてその大きな手で私の髪を撫でつける。


「おさまってきた?」

「んー?もうちょい?」


 何度か私の髪を梳いていた御影の指が、ゆるりゆるりと耳たぶをなぞった。


「ちょっと、御影!」

「んー?」

「もうおさまったでしょ?」

「まだ、もーちょい」


 揶揄うような表情にすらときめいて、私はもう何も言えなくなってしまう。無意識に目を閉じた私に、御影は「それはやめてくださいー」と指を離した。


「それ?」

「そう、それ。全部失ってもいいって顔」


 ついさっきまで私の耳の縁をなぞっていた指が、不躾に私の顔を指した。


「やだ、私そんな顔してないんだけど」

「いーや、してた」

「御影、それ自意識過剰って言うんだよ」

「お前自覚ねーって相当やべーぞ」


 旦那にバレたらどうすんだよ、と呆れたように困ったように鼻から息を吐いた御影を見て、私は傷ついた。

 今の生活を捨ててもいいと心のどこかで思っていたのは私だけで、御影はそんな風にはちっとも考えていないのだ。高校生のおままごとの続き。御影には大切な彼女もいる。これは純愛を真似た下品で低俗な遊び。


「バレても御影に責任取ってとか、言わないし」

「いや、そういうことじゃなくてだな」


「なに、またあんたら言い合いしてんの?」


 その声にハッと2人で振り向けば、そこには呆れ顔のマユコが腕を組んで立っていた。どこから見られてたんだろう、とサッと血の気が引いたが、「ほんと仲良いんだか、なんなんだか」とケラケラと笑うマユコから私たちを怪しむ雰囲気は伝わってこない。


「だって御影が訳分かんないこと言うから」

「俺?お前だろ、訳分かんないこと言ってんの」 

「御影でしょ」

「いや、塚原だから」

「はいはいはーい、高校生みたいな絡みやめてね?わたしたち、もう32歳よ?」


 そう言ってマユコがさらに呆れた頃、リサと植田くんが連れ立ってやって来た。


「お待たせ〜!ごめんね、今日」


 みんなを突然呼び集めたとあって、リサは恐縮しているようだった。「お店も予約しておいた〜」と、リサが目的地に向かって歩き出す。

 リサとマユコと植田くんが子供の話をしている。その後ろを私と御影が無言で歩く。トンと、体が触れて、御影がそっと小指同士を絡ませた。なにしてんの、と思わず御影の顔を見れば、彼は私の戸惑いなど何処吹く風で前を向いている。その横顔の口元が私を揶揄うように弧を描く。


「全部失ってもいいって思ってるのは、御影じゃないの?」


 私の言葉を聞いた御影は、すぐに小指を解いた。


「馬鹿なこと言ってんなよ」


 うん、本当だね。失う覚悟があるなら今ここでキスをしてほしいと言えば、御影は「じゃあ、終わりにしよう」と決断するだろうか。なんだ、私たちの関係を終わらせるのなんて簡単じゃん。儚く脆い私たちには、小指同士を絡ませるぐらいがお似合いだ。解いたばかりの小指を冬の風がさらに冷やした。




 リサが予約してくれていた所は半個室の鉄板焼きのお店であった。ディナーはなかなかのお値段なのだが、ランチは1500円ほどでお腹いっぱい食べられるようだ。

 

 注文を終えると、植田くんが「で?なにがあったの?」と早速核心に触れる。リサは「あー」とか「うーん」と言い淀み、自分の背中を押すように深呼吸を一度してみせた。その様子に余程言いづらいことなのだろうか、と固唾を呑む。それはみんなも同じようで、その場は自然と沈黙に包まれた。


「あはは、やだやだ、そんな緊張しないでよ!ただ、相談……というか、どうしても誰かに話したくて」

「うん。リサのペースで言いなよ」


 空元気なリサを優しく受け止めるマユコが背中をさすった。リサは幅広い意見が聞きたいと私たちを呼んだようであった。


「実は、旦那が不倫してるっぽくて、」


 ぽいというか、確実にしてるんだけど、とリサは愛想笑いで自分の言葉を正しく言い直した。

 "不倫"という強烈なワードに空気が固まって、私は何も言えなくなる。思わず目の前の御影を見れば、ほんの少し視線が交わった。


「旦那が不倫相手に入れ込んじゃって、どうしたらいいのかなって」


 普段の快活なリサからは想像ができないほど、その表情からは疲れが見て取れた。


「リサは別れたくないんだよね?」


 マユコの言葉にリサは迷いなく頷く。その意思を確認した植田くんが「家庭を壊すほど不倫相手にのめり込む奴なんて、ほぼいないだろ」と重い口を開いた。


「そうかな?」

「そうだよ。不倫するような女とか恐ろしすぎて、信じられないし」

「リサは気づいてないフリをして、明るく優しく接した方がいいよ」


 植田くんとマユコが「大丈夫。馬鹿なことをしたなって気づいて、リサの元へ帰ってくるよ」とリサを励ます。私はといえば、どの口が彼女を励ます言葉をかけられるのかと、唇を引き結んでいた。


「杏は?杏は、不倫する人の気持ちって分かる?」


 リサから投げかけられた質問に言葉が詰まった。てっきり聞かれるなら「ご主人が不倫をしたらどうする?」とかだと思っていた。そうなれば当たり障りなく答えようとしていたのだ。まさか、どこかで気づかれているの?と、僅かな可能性に恐怖する。


「私?私は分からないけど……。もしするなら、それは、一時の気の迷いみたいなもんかな。離婚してまで、とは思ってないと……思う」

「うん……そうだよね。一生愛するって誓って結婚したんだもんね、ワタシたち」


 私はもう御影の顔を見ることができなかった。


「そうだよ。不倫なんて、本当に軽蔑する」

「だよなー。いろんな人裏切って傷つけて、本人たちは好き勝手やって」

「そうそう、結局"悪いことしてる私たち"に酔ってるだけ。大丈夫。不倫してる人にはバチが当たるよ」


 植田くんとマユコはリサを励ますために、不倫がどれだけ最低な行為で、その罪に手を染めた人がどれほど低俗かを声高に主張する。


「へぇ、どんな罰を受けるの?」


 私たちにとっては針の筵の空気の中、ぽつんと御影の低い声が落とされた。それは彼女たちを馬鹿にするでも、自分の正当性を主張するでもない、ただの純粋な疑問のように思えた。


「どんな?それは、不倫をするような最低な人格ってレッテルを貼られて、周りからの信用を失うのよ」

「あとは、慰謝料じゃね?慰謝料の支払いで人生終わるんだぜ?」

「家族も友達も離れていくよ。仕事も失うかも」

「そもそも、不安とか罪悪感を抱えながら関係を続けていくことがしんどいだろ?」

「たしかに。そんな関係長続きしないよね?好きな時に会えないし、寂しいも言えない。なにが楽しくて不倫するんだろ?」


 御影は2人の会話をうんうんとまじめに聞きながら「分かった。確かに不倫は誰も得をしない、最低最悪の行為なわけだ」と、今理解した風に答えを出した。


「そうだよ。御影も気をつけなよ〜?」


 御影から納得のいく返答を得たマユコは、一仕事を終えたぐらい満足げだ。


「じゃあ、それ全部失う覚悟があれば、不倫してもいいの?」


 この場にいた全員、開いた口が塞がらなかった。マユコに至っては「はぁ?」とありのままの感情を声に出している。私は御影の言葉にハラハラと落ち着かない心地であった。


「いやいや。そもそもの話、わざわざ不倫する必要なんてないじゃん。どうしても人を好きになったら、離婚してからしなさいよ、って話よ」

「なるほど、たしかに。ま、この辺で近藤の旦那の悪口は止めにしようか?」


 今日一空気が凍りついた。表情が固まった植田くんと目が合って、お互い苦笑いを浮かべる。リサも同時に苦笑いを浮かべ、マユコは「あんたね、」と、この場で唯一和かな表情の御影を責める口調を崩さなかった。


「めっちゃ突っかかってくるじゃん。なにあんた、結婚してる人好きにでもなっちゃったの?」

「えー?俺が?まぁ万が一そうなったら、俺のこと、愚かで最低な人間だなって軽蔑してよ」


「バカじゃないの」


 思わず口をついて出た私の言葉に、みんな「その通り」だと声を出して笑った。御影も「だな」って笑って、私にひっそりと視線を寄越した。





「ほんとっ、バカじゃないの」


 一度解散をしたのち、私は一人、御影の部屋を訪れた。


「時間いいのか?」


 玄関を開けて開口一番に御影の今日の態度を責めた私に、御影は応えなかった。どことなく冷たい口調に心臓がきゅっと縮まる。


「御影、」

「旦那、お前の帰り待ってるんじゃねーの?」

「……うん、まぁ、たぶん」


 私を気遣いながら、実のところ私の来訪を拒絶している御影に段々と声のトーンが下がっていく。なによ、電話では「いいよ」って言ってたくせに。全然いいよって思ってないじゃん。


「やめるか?」

「え?やめるって、なにを、」


 言いながら、私たちのことかと理解していく。御影は怖くなったのだろうか。今日間接的に責められて、続けていく気がなくなってしまったのかもしれない。

 私が気づいたことを表情で察した御影は、優しい微笑みを浮かべ「どうする?」と判断を委ねるのだ。


「なにそれ、狡い。御影がやめたくなったなら、そう言ってよ!……どうせみんなの話を聞いて怖くなったんでしょ?」

「お前は怖くならなかったの?」

「怖いよ、怖い……そんなの怖いに決まってる」

「今なら戻れるぞ。幸せだけの生活に」


 ゆるゆると緩慢な動作で御影の親指が私の頬を撫でる。言ってることとやってることがチグハグ過ぎな御影の本音は、どこにあるのだろう。


「……御影は戻れるの?」

「俺?俺はもう戻れない」

「え?」

「でも、今ならお前のこと解放してやれるかもしれない。だから怖くて逃げたいなら、ここが最後だぞ」


 泣きそうな顔で笑うんだな、と思った。愛しいと思ったときには、私の手はすでに御影へ伸ばされていた。


「私だって、もう戻れないよ」


 御影はそう言った私を掻き抱いて、「ごめんな」と呟いた。それは私を地獄へ続く道へ引き摺り下ろしたことへの懺悔なのだろう。

 だけど、御影、謝らないで。私は望んでそこへ堕ちたのだ。もう戻れない。私たちの後ろで、日常への扉が音を立てて閉まった。

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