第10話.枯れた愛を知らずに死んで

 御影の話を聞いて、高校生の頃の私が救われた気になった。

 あの頃は御影のことが気になるけれど、距離を詰めればどこか壁を作る御影に心が折れそうになっていたのだ。だからタイミング良く告白してきてくれた船橋先輩と付き合った。結局好きになれなくて、そんな私に不満を持った先輩に振られたけれど。

 それからすぐに御影に彼女が出来たんだ。そのことにもかなり傷ついた。いくら仲良くなっても御影は私のこと好きになってくれないんだなって。だけどそれは御影の捻くれまくった愛情そのものだったんだな、って。今それが分かって、とても嬉しかった。

 そりゃ、あの頃に素直になってくれてれば、と、思わない気持ちもなくはないけど。きっと遠回りした私たちだから、今やっと素直に気持ちを伝えられたのだろう。


「ただいま〜!今日すっげー忙しかったよぉ」

「凌介!おかえりなさい」


 お疲れ様、と駆け寄った私を見た凌介は「んふふ」と声を押し殺しながら笑った。忙しかったと言った割に上機嫌だ。きっといつもより疲れているはずなのに。


「なに〜?今日機嫌良くない?」

「えっ、私?」

「うん、杏ちゃん。何か良いことあった?」


 鋭い凌介にドキリとした。それとも私が分かり易すぎただろうか。


「え〜?あ、グラタンのホワイトソースが上手くいったからかも!」

「やったぁ!杏ちゃんがご機嫌だと俺まで嬉しい」


 凌介は私を抱きしめ、「着替えてくるね」と頬にキスをした。冷や汗が流れる。スリルを楽しむなんて、そんな余裕ない。バレないように、バレないように。不倫の恋は浮かれてはならない。




 食事が終わり、お風呂へ向かう凌介が洗い物をしている私の背後に立った。そして腰を折り、顎を私の肩に乗せる。


「なに〜?洗いにくいじゃん」

「んー?匂いの確認」


 すんすんと犬のように鼻を鳴らし、凌介は私のうなじの香りを嗅いだ。これは私を怪しんでいるとかではなく、凌介のたまに出る癖みたいなものだ。彼曰く、うなじ辺りの匂いが一番好きらしい。

 私はそれを気にすることなく受け入れた。すでにお風呂に入っていたし、それに私と御影は互いの匂いが移るような行為はしていなかった。


「はぁ、今日もいい香り。杏ちゃんの匂いだ」

「ねぇ、早くお風呂行っておいでよ」

「うん、そうする。先にベッドに行っておいてね」


 うなじにチュッと可愛らしいキスをした凌介が風呂場の扉を閉めたことを確認し、私は溜息を吐いた。

 凌介の匂いの確認は、性行為の誘いのサインでもあった。御影と想いを通わせてから初めてのセックス。私はそれに応じられるだろうか。いや、応じなければいけないのだ。




 私がベッドに入ってから少しした後、凌介がそっと寝室の扉を開けた。ベッドの軋む音に思わず目を瞑った。


「杏ちゃん、お待たせ」

「うん、全然。凌介、仕事で疲れてない?」


 無理してセックスしなくていいよ、と暗に匂わせたが、凌介は「俺の疲れは、杏ちゃん見ると吹っ飛ぶから」と、額に唇を寄せる。


「凌介、あのね、」

「ん?どうしたの?したくない?」

「ちがう、そうじゃないよ」

「そ?生理、じゃないもんね。この前終わってたし」


 ニッコリと笑った凌介が、ベッドサイドテーブルに置いてあるランプの明かりを消した。


「凌介、」

「んー?なに、今日の杏ちゃん変だよ」


 その言葉に背筋が凍った。あわよくば「疲れてるから」と断ろうとしていたが、それは完全に悪手だ。御影との関係を続けるために、私は心を殺してこの人に抱かれなければいけない。その思いが凌介にとってどれほど残酷なものか、私はそんなことこれっぽっちも考えていなかった。


「そうかな?凌介、キスして」


 今日の昼、御影に愛を語った口が、夜、凌介にキスを強請る。私は最早、凌介を裏切っているのか、御影を裏切っているのか分からなくなっていた。ただ目を閉じて凌介の舌を受け入れる。これは御影だと思い込んで、気を抜いてその名前を呼んでしまわぬように、舌に力を入れた。


 凌介とのセックスの流れはもう把握していた。キスを繰り返し、凌介の軽い前戯と私から凌介への短い奉仕。それが終われば正常位で挿入をして、後背位をして、また正常位に戻って、凌介が中に出して終わり。少しの違いはあれど毎回同じだ。別に不満はない。私、そもそもセックス自体が好きじゃないし。だからある程度の時間でサッと終わる凌介とのセックスを嫌がったことはなかった。


「いっ、」

「あれ、濡れてないね」


 凌介は不思議そうに私の秘部を数度なぞり、もう一度指の挿入を試みた。


「ん、凌介、痛い」

「だよね、ごめん!やっぱり気分じゃなかった?」


 諦めた凌介が私の横にゴロンと寝転んだ。気分じゃなかったといえばその通りなのだが、身体と心がこれほどまでに結びついている事実に私自身も驚いている。


「うん……そうなのかな?なんでだろ、よく分かんないね」


 乾いた声であははと気まずさを誤魔化したつもりが、流れる沈黙にさらに気まずくしてしまったことを悟った。


「俺とのセックス飽きた?」

「ちがう!飽きてなんか……」

「じゃあ、俺のこと嫌いになった?」

「そんな、嫌いになんて、ただ気分が」

「そ?今日はやめとこっか」


 そう言って、凌介は私の頬をさらりと撫でた。その仕草に思い出したのは、御影であった。そしてその途端、私の身体は正直にもじわりじわりと愛液を溢れさせる準備を始める。

 未消化の性欲求を持て余した凌介は、やめておこうと言ったその口で私に深い口づけを落とした。そしてやわやわと私の体を弄り、先ほど痛いと訴えた秘部に指を這わす。


「あっ、待って、凌介……!」

「あ〜、濡れてる」


 歓喜の声で、凌介は私の身体を暴いていく。神聖な愛の営みであった。ほんの少し前までは名実ともにそうであった。だけど今はどうだろう。私の中の御影が身体を解し、心の中では御影の名前を呼ぶ。与えられる快楽に目を閉じているのではない。凌介を見たくないから、頭の中で御影に会いたいから、私はそうしているのだ。

 


 早く終わってほしいと思うのに、終わってほしくないと思う。その相反する気持ちは、私が御影を慕う感情と、凌介のある行為からきていた。


「……俺もうっ、イキそ、中に出すね」


 彼は必ず私の中で果てたがった。もちろん私もそれを許していた。


 結婚6年、セックスの度に必ず中に出された。それでも私は妊娠しなかった。きっとどちらかになんらかの原因がある不妊なんだと思う。

 中に出しても妊娠しない。それが1年ほど続いた頃、私は凌介へ「不妊クリニックに行かない?」と持ち掛けた。しかし凌介は首を縦に振らなかった。彼は「そこまでして子供が欲しいと思えない」と答えた。「2人で歳を重ねていくことも幸せだよ」と優しく微笑まれて、私は言葉を返せなかった。確かにそうか、と思ったし、凌介を説得するだけの熱量を持ち合わせていなかったのだ。

 しかし歳を重ねるごとに「このままでいいのかな」という不安がついて回った。何度か話を持ちかけたけれど、凌介の答えは変わらなかった。私は納得するしかなかった。誰かの子供が欲しいのではない。私は凌介との子供を授かりたかった。

 だけど今、私はその選択をして良かったと心の底から思っている。だから、だからこそ今、中に出されるわけにはいかなかった。


「りょ、すけ、だめ、中は」


 凌介の律動が速く規則的になれば、それは終わりの合図だった。腰を打ち付けられる振動で、私の言葉が途切れ途切れになる。

 だけど私は明確に拒絶をした。それはきっと快楽に支配された凌介にも届いていただろう。それでも凌介は私の願いを聞き入れてはくれない。「中に出すね」と恍惚な表情を浮かべた凌介は、欲望全てを私に吐き出した。


「はぁ〜、気持ちよかった」


 放心状態の私の体を、凌介が清めていく。凌介はセックス後の処理を私にさせたがらなかった。いや、させてくれないと言った方が正しい。ティッシュで秘部を拭かれながら、ぬるりとした感触を悍ましく思う。

 私はいったい何のために夫婦関係を続けていくのだろうか。この生活は何としてでも守っていきたいものなのだろうか。御影との関係をバレたくないと思うのに、いっそバレてほしいとも思う。 

 しかし御影には国枝さんがいる。離婚した私を疎ましいと思うかもしれない。つまり私は、自分からこの平穏な生活を壊す気概はないのだ。私はこの歳になって、自分の狡さを嫌というほど知った。





 シャワーを浴び終えた凌介が寝室に戻ってきたのと同時に、私は寝室を出る。気持ちとしては一刻も早くお風呂場で中に出されたものを掻き出したかったが、そんなことで妊娠確率が下がらないことを私は知っている。


「大丈夫?フラフラしてる」

「ん?平気だよ」

「やっぱり俺、一緒に入ろうか?」

「あは、凌介さっき上がったばっかじゃん」


 何を言ってるの、と力無く笑えば、凌介は真剣な眼差しで私を見つめた。


「やっぱり、杏ちゃんなんか悩んでる?」


 私を窺うように細まった凌介の瞳を、ジッと見つめ返した。ここで目を逸らしてはいけないと、本能が訴えてきたのだ。


「悩んでないよ。何に悩むことなんてあるの?」

「う〜ん。パート先の人間関係?」

「ないない。みんなとっても良い人で楽しく働いてるよ」

「じゃあ、俺の母さんと何かあった?」

「え〜?凌介の?お義母さん、私たちのこと放っておいてくれるじゃん。ないない」


 シャワー浴びてくるよ、と目を逸らせば、凌介が私の腕を強く握った。


「それじゃあ、子供のこと?やっぱり欲しい?」

「ん〜?私は凌介と2人で生きてくことにしたよ?だから、ほんとに悩んでることなんてないから」


 これ以上は許して。凌介が真相に近づきそうで、私は話題を変えるために「あっ!」と大袈裟な声を出した。


「そうだ!言うの忘れてたことがあって」

「ん?なになに?」

「今度の日曜日、リサとマユコと遊んで来てもいい?」

「あぁ、この前結婚した子?」

「そうそう。と、結婚式に一緒に行った子」

「いいじゃん、行ってきなよ」


 2人を包む空気が途端に明るくなり、私は胸を撫で下ろす。


「リサに子供がいるから、夕方には帰るよ」

「3人で会うの?」

「ん?今のところね」


 私の嬉しそうな顔を見て、凌介もやっと満面の笑みを浮かべた。


「なんか、リサが話したいことがあるみたい」

「へぇ、なんだろね。気になるね」

「うん。二人目できたとかかなぁ、って思ってるんだけど」

「おー、めでたいね」


 そうだね。私も今なら心の底から祝福できそう。そんな嫌味を腹の底に抱えて、私はシャワーを浴びに向かった。

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