第9話.砂糖だけを食っていたいね

 自分の生い立ちを不幸だと思ったことは一度だってない。



 俺の両親は離婚している。俺が小学5年生の時だ。きっともっと前から夫婦関係は破綻していたのだろう。それは幼い俺にも伝わってくるほどで、俺は幼心にも早く別れたらいいのに、と思っていた。


「徹志、母さんと父さんは別れることしたの」


 母親からそう告げられたとき、やっとか、と感じたことを覚えている。やっとこの息の詰まる牢獄から解放されるのか、と。「良かったね」と言った俺に、母親は寂しげな笑みを浮かべた。


「それでね、徹志。徹志は今の学校のお友達と離れたくないでしょう?だから、」


 母親は言いづらいのか、たっぷりと間を取ったあと申し訳無さそうに俯き、「徹志はおじいちゃんとおばあちゃんの家へ行きなさい」と告げた。


「ほら、そうすれば転校しなくて済むから」

「母さんと父さんはどこに住むの?」

「……うん。お母さんとお父さんはね、」


 母親と父親は自分たちの恋人、つまり不倫相手と暮らすことを決めていたようだった。母親は自分よりうんと年上の人、父親は一回りほど年下の人と不倫を重ねていたと知ったのは俺が中学生になってからだった。

 夫婦関係が破綻していたのが先か、お互いの不倫が破綻させたのかは分からないけれど。とりあえず俺の存在は2人にとっての鎹ではなく、足手纏いだったようだ。


 母方のじいちゃんとばあちゃんは俺を可愛がってくれたし、友達も急に両親がいなくなった俺を変に気遣うことなく、以前と同じように接してくれた。端的に言えば両親に見捨てられたわけだが、俺は不幸ではなかった。ただ一つ、両親の離婚が俺に落とした影といえば、誰かの望む俺でいなければいけないという思考が根付いてしまったこと。

 あ、あともう一つ。恋の始まりは終わりと共にやってくるのだという考えだ。もちろん全てに当てはまることではないと理解している。それでもあの2人から生まれた俺が、生涯の伴侶を運良く見つけられる未来は想像できなかった。




 昼休み、猥談を持ちかけてくるのは絶対に決まってこの男、植田であった。


「なぁなぁ、見た?今月号」

「んー?見てねーな。なに、買ったの?」


 そう言った俺に嬉々としてエロ雑誌を広げる植田。その気配を察知したいつものメンバーたちがゾロゾロと俺の机の周りに集まってきた。


「ぐはっ、エロい、エロ過ぎる……!」

「オレはやっぱ胸が大きい方がいいなー」

「分かる、やっぱ胸だよな」


 男子高校生なんてみんな猿だ。いや、猿に失礼か、と思うほどエロいことしか考えていない。


「俺は、この子がいい」


 そう言って俺が指差した先にいるセクシーアイドルを見た友達が「うわ、御影好きそ〜」と感想を漏らした。


「ほんとだ。御影のタイプそのまんまじゃん」

「守ってあげたい系ね」

「徹志はほんとブレないよな」


 半笑いの植田が俺をそう評した。タイプなんてみんなそうそうブレないと思うけれど、俺はその中でも一際ブレないらしい。そりゃそうだ。俺に好きなタイプなんて存在しなかった。たまたま聞かれたときになんとなく答えたタイプを貫き通しているだけ。だからブレようがないのだ。


「げっ、教室の中でエロ本見る〜?普通」


 盛り上がっていた所に突然聞こえた女子の声に反応した植田が、勢いよく雑誌を閉じた。閉じたところで表紙にもほぼ裸体の女が写っているのだから、意味がないと思うけど。


「健全な男子高校生だろーが」

「開き直るなよ!」


 植田と男バレマネージャーの関根マユコが小競り合いをしている中、関根と一緒に俺たちの所に来た塚原が興味深そうに雑誌を捲った。


「見事にみんな巨乳だね。やっぱり男子は巨乳が好きなの?」


 塚原の発言は間違いなく俺に向けられたものだった。雑誌を捲り続ける塚原の指先にドキドキした。高校一年生の秋の初め、漫画の貸し借りを通して仲良くなった塚原は人との距離が近かった。今も無言で俺の横に腰をかけ、ただでさえ背の高い俺には小さな椅子を2人で半分こしている。吐息がかかってしまいそうな距離にドギマギして、呼吸をするのさえ躊躇ってしまう。


「ねぇ、聞いてる?御影も巨乳が好きなの?」

「あぁ、俺?俺は、」

「御影は胸より顔だよ、顔」


 俺の答えを分捕って塚原との会話を続けたこいつは以前「塚原って可愛いよな」と言っていた。


「顔〜?途端に性格が悪く感じるんだけど」

「そう!御影は性格悪いよ?オレはね、好きになった子がタイプ」

「そうなんだ!いいね〜。それなら私も頑張れそう」


 うふふと淑やかに笑う塚原になぜか腹が立った。俺は、「それってどういう意味?」と塚原の発言の真意を探ろうとする男の言葉に「塚原のタイプは?」と被せた。性格の悪い俺の意地の悪い仕返しだ。


「私?私は、……分かんない」


 そう言いながら、言葉と言葉の間に塚原は俺にちらりと視線を寄越した。その視線の意味を知りたいと思うのに、俺はその意味を知ることを恐れた。


 高校1年生の冬の真ん中、塚原に初めての彼氏が出来た。一つ上のサッカー部のイケメン。俺と塚原は仲の良い友達だった。塚原の視線には意味などなかった。




 一人暮らしをしていてよかったと思うことは多々あったが、これほどのメリットを感じたことは初めてだった。


「御影、会いたかった」

「うん、俺も」


 俺たちは外で会うことを躊躇う関係だ。このありふれたワンルームはそんな恋を隠してくれる、とっておきの場所。

 なにをするでもなくただ2人で同じ時間を過ごす。その行為は離れていた時間を埋める共同作業のようにも思えた。


「ん、そういや船橋先輩、結婚したんだって」

「船橋先輩って、塚原の元カレ?」

「そうそう、マユコが教えてくれた」

「関根が?」


 何で関根?と不思議に思う俺に、塚原が「マユコのご主人が船橋先輩と地元一緒なんだって」と答える。世間の狭さに笑ってしまう。地元から離れていないとそんなもんか。俺たちの世界は思うほど広がってはいないみたいだ。


「どうなの、元カレが結婚するって」

「元カレって、高校のときにちょっと付き合っただけだよ?さすがになんとも思わないよ」


 塚原は俺の発言が余程おかしかったのか、くすくすと肩を震わせる。


「それとも御影は"フミちゃん"が結婚してたら、やっぱりショック?」


 元カノの名前を告げて、窺うような視線が投げかけられた。俺は首を振りながら「なんとも思わない」と本音を溢す。

 それは昔の元カノだからとか、付き合った期間が短かったとか、そういうことじゃなくて。そもそも好きではなかったから。なんとなく付き合って、なんとなく別れた。当て付けの意味合いの方が大きかった。みんなが思う俺のタイプにドンピシャだった。


「ね、そうでしょ?あの頃の恋なんて、おままごとだった」

「そうか?俺は今でも引きずってる」

「え?フミちゃんのことを?」


 塚原の表情がさっと曇った。塚原が俺の一言一句を真正面から受け止めてくれることの幸福を身をもって知る。


「そうじゃなくて。お前のことだよ」

「あ、あぁ、私のことか」


 ホッとしたあと、塚原の顔に熱が集まる。色づく頬にそっと手を伸ばす。あの頃塚原と近づくことを恐れなければ、こうして触れるたびに罪悪感を感じる関係に堕ちることもなかったのだろうか。罪悪感より強い嫉妬を身に宿すこともなかったのだろうか。実らなかった恋ほど、鮮明な影を残すらしい。


「ね、あの頃も私たち両思いだったのにね」

「なに、お前もやっぱり俺のこと好きだったの?」

「え〜?やっぱりって気づいてたの?」

「半々だよ。そうだといいなって思いつつ、そうじゃなかったらいいなって思ってた」


 あの頃の本音を告げた俺に、塚原は眉を寄せ「どういうこと?」と首を傾げた。確かに訳が分からないだろう。好きな人とは両思いになりたいと思う自然の流れに逆らう感情。だけど両親がお互いの不倫で離婚した俺にとって、始まりは終わりと同義であった。


「船橋先輩と別れただろ?それを見て怖くなった。いつか来る終わりが」

「まだ始まってもいなかったのに?」


 塚原は理解できないとでもいうような口振りであの頃の俺を責めた。


「そう。ダッセーだろ?明確な終わりが来るなら始まりはいらなかった」

「だからか!あの頃、御影のこと好きになっちゃダメだな、って思ってたの」


 塚原は14年越しの答え合わせに納得をしたように頷いた。


「でも結局、不倫っていう最悪な形で始めちゃってるし」

「ぶはっ!間違いねーな」

「救えないね」


 救いようのない愚か者。俺たちは望んで愚者に成り下がり、あの頃叶わなかった恋の続きを始めた。誰にも祝福されない、何よりも明確に終わりが定められた恋だ。

 しかしそれが良かったのかもしれない。期待は絶望を引き連れてくるから。初めから期待などできない関係。俺にはそれがお似合いだと、心のどこかで感じていたのだろうか。


「俺、自分は絶対に浮気や不倫をしないと思ってた」

「ふふ。私もだよ」

「欲望に負けて不倫する人たちを軽蔑してた」

「うん……分かる。私には関係のない世界のことだと思ってた」


 そう言った塚原の声があまりにも悲しげで、泣いているのかと思った。しかし顎を掬い、半ば無理矢理に上を向かせた塚原は泣いていなかった。それどころか薄らと笑みを湛えていたのだ。

 

「私が不倫をするような女でガッカリした?」


 感情の読めない塚原の瞳に俺が映っている。情けない男だ。好きな女の幸せを願い、潔く諦めることもできない。自分のために塚原と距離を詰め、自分のために彼女の幸せを壊し、嫌悪していた両親と同じ過ちを犯している。


「俺に靡いてほしい気持ちと、俺を拒絶してほしい気持ちがごちゃ混ぜになってた」

「……うん」


 塚原の瞳に膜が張る。お前は笑いながら泣くのかと、素直になれない強がる彼女をさらに愛しく思った。


「それなのに、お前が俺の手を掴んでくれたとき、死んでもいいと思った。今この瞬間、世界が終わってくれと、心の底から願った」

「ふふ。御影って、自分勝手だよね」

「そう、俺は自分さえ良ければそれでいいんだ」


 そうでなければ、人の妻を奪おうだなんて思わない。好きな人を幸せな世界から引き摺り下ろそうだなんて思わない。そんな傲慢な俺にはいずれ罰が下るだろう。罪には罰を。それは決まりきったことだ。


「今も世界の終わりを願ってるの?」

「今?今はこの幸せが少しでも長く続いてくれって思ってるよ」


 あっけらかんと言い切った俺に、塚原は声を出して笑った。


「なにそれ、ほんと勝手すぎ〜!」

「お前に言われたくねーな」

「ほんとね。私たちお似合いだね」


 塚原の瞳から堪えきれなかった涙が一粒こぼれた。自分勝手で汚い塚原から流れたとは思えないほど、透明で美しい涙。俺たちの関係が終わる頃には涙も枯れ果てているだろうか。枯れ果てるほど俺たちの関係が永く続けばいいと、そう願って、俺は塚原にキスをする。塚原の冷たい唇が、俺たちの罪の深さを物語っていた。

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