第8話.たまゆらの恋に溺れにおいで

 私は陸上部で短距離をしていた。トレーニングで長い距離を走っていた。しかし昔千里も今一里。ハァハァと息を切らしながら、それでも御影の姿を探している。


 最寄駅に着いてキョロキョロと見回したが、辺りには御影らしい人は見当たらない。彼は高い身長故に目立つのだ。スマホで連絡を取ればいいじゃん、と気づいたとき、私の背後でジャリと靴と地面が擦れる音が聞こえた。ゆっくりと振り返ったその先には、探していた御影が諦観の表情でこちらを見ていた。


「御影!良かった、まだいて。あれ、国枝さんは?」

「んー?先に帰ってもらった。俺、忘れ物したから」

「気づいたの?良かったぁ。見つけたとき焦ったよ」


 はい、と、指先で摘んだ鍵を揺らせば、御影は手のひらを見せた。ここに乗せてくれということか?と解釈して、広げられた手のひらの上にソッと鍵を置いた。その瞬間、御影の手が私の手をギュッと握った。


「み、かげ、」


 驚きに声が詰まる。そんな私を見て、御影はまた諦めたような笑みを浮かべた。


「俺、賭けてたんだよね」

「賭け?」


 日常ではそうそう使わない単語に私は首を傾げたが、御影はそれを気にも留めずさらに強く手を握った。


「それ、わざと忘れたんだよ、俺」

「え、それってこれ?」


 手ごと御影に握られて、未だに私の手の中にある鍵に視線をやれば、御影は肯首する。


「どういうこと?全然分かんない」

「塚原が届けてくれたら、諦めることを諦めようって」

「え、え、なに、分かんない」


 冬だと言うのに手のひらからはじっとりと汗が滲み、胸がきゅうと切なく泣いた。分からないと言いながら、愛の告白のような御影の手の柔らかさに2人の始まりを感じる。

 しかし恋の始まりと言っても、終わりはもう決まっているのだ。どちらかが相手に飽きるか、この関係を続けることを恐れるか、それともバレて全てを失うか。祝福される恋ではない。物語の終わりがバッドエンドだと決まっているのに、それでもどうして始まりを望んでしまうのだろう。しかし私にはいつか訪れる終わりの瞬間より、今この瞬間感じている御影の温もりを失う方が恐ろしかった。


「お前は分かんなくていい。酷い男に騙されたって、そう思ってて」


 躊躇うように私の手を離し、「人目につかないところに行こう」と歩き出した御影の後ろを、少し離れて追った。これは地獄へと続く道だ。今ならまだ引き返せるかもしれない。扉を開けてしまったが、「間違えました」と言えば、あの窒息するような平凡な日常に何事もなかったフリをして戻れるだろう。

 だけど、私は、もうすでに御影の体温を知ってしまった。ふわり、ふわりと御影の黒髪が揺れる。硬そうだなぁ、と思っていた髪は案外柔らかいのかもしれないなぁ、と、そんなことを考えた。




 最寄駅の近くに人目につかない所などなかった。そこを利用している私でも思いつかないのだから、地理感のない御影は尚更であった。


「人が通らないとこってどこ?」


 と、真面目に聞いてくる御影に「締まらないなぁ」と笑みが溢れる。ばつが悪そうに「うるせー」と悪態をつく御影を、とても愛しいと思った。


「小さい公園がいいかも」

「おう。じゃあ、そこ行こうぜ」


 そしてまた離れて、私たちは歩き出した。誰が見ても他人の距離だ。心を通わせた2人の距離ではない。だけどこれでいい。地獄に堕ちることを厭わないと言いながら、全てを白日の下に晒す覚悟など到底出来ていないのだ。


 私が御影を連れて来た公園は、遊具がブランコしかない小さなところだ。それでも昼間は子供が遊んでいるのだろうが、21時を回ればそこには誰の姿も見えなかった。

 そんな小さな公園のベンチに2人で腰を掛ける。触れるためには手を伸ばさなければいけない。"あなたに触れたい"と明確な意思を持たなければ触れられない、そんな距離に腰を下ろした。


「俺が、卒業式のときに言ったこと覚えてる?」

「……え?」

「いや、忘れてていいんだ。忘れてるのが当たり前だと、」

「『30歳になって独身なら結婚しよう』とか、なんとかいうやつ?」

「んだよ、覚えてんじゃねーか」


 御影の声音は、嬉しいのか悲しいのか、どちらとも取れてどちらとも取れない複雑なものであった。


「少し前に急に思い出したの。別にずっと覚えてたわけじゃないよ」

「まぁ、お前はさっさと結婚したしなぁ?」


 私をほんの少し責めるような口調に自然と眉根が寄っていく。


「御影って私のこと好きだったの?」

「んー?好きだったよ、ずっと」


 サラリと告げられた事実に息が止まった。どうせ「自意識過剰かよ」って揶揄われると思っていたのに。


「……じゃあ、どうしてあの日『付き合おう』って言ってくれなかったの?あんなの、誰だって冗談だと思うよ……」

「……俺が意気地なしだったから。後悔ばかりの日々を送ってきた」


 ひたすら前だけを見つめ話していた御影がゆっくりと私の方を向いた。公園の入り口に一つだけポツンと置かれた街灯の光は淡すぎて、ちっとも役に立たない。それでも狭い区画に整然と建った家々から漏れ出る明かりが、御影の表情を微かにでも伝えてくれる。

 泣きそうだな、と思った。私ではなく、御影がだ。後悔ばかりの日々と言ったが、御影はどこからどこまでを悔やんでいるのだろうか。今となってはどうしようもない苦しみを、私が少しでも癒すことができたら。それが私たちが再び出会い、背徳の恋に溺れようとしている意義ではないのか。


「私、御影のこと好きにならない」

「……あぁ、」

「退屈を紛らわすために御影を利用するの」

「うん、いいな。俺たちにはお似合いだ」


 そう言って目尻を下げた御影は、私が見てきたどの御影よりも幸せそうだった。


 示し合わせたように2人で手を伸ばした。指と指を絡めて、決して離れないようにと結ばれた手は私たちには不似合いだ。誰にも言えない、未来もない、過去の幻想に縋った傷の舐め合い。それでも、触れた手が幸せだと泣いている。

 御影は躊躇って躊躇って、しかしそうすることが定めだとでもいうように、私を引き寄せた。御影の胸元に顔を埋めれば、私たちの世界はそこに集約された。


「塚原、」

「御影、」


 同時に呼んだお互いの名前は愛の囁きそのものであった。そして、ゆっくりと重なった唇も。

 恐ろしいのは、罪悪感など微塵も感じなかったこと。凌介のことも国枝さんのことも、少しも思い出さなかった。ただこれだけの幸せを抱きしめて、この幸せがずっと続きますようにと、子供でも無理だと悟る無謀な願いを何度も唱えた。


「御影、きっといつか、この選択も後悔するよ」


 意地悪く告げたその言葉を御影はどんな気持ちで聞いたのだろう。


「それでもあの頃よりはずっとマシだ」


 ハッキリと言い切った御影は、慈しむように私の頬に指を滑らせた。




 夢中で重ねた唇がお互いの唇に馴染んだ頃、御影がふと「電話鳴ってんじゃねーの?」と動きを止めた。


「?電話?」


 御影にそう言われて意識を集中させてみれば、確かにコートのポケットに入れたスマホがブーブーと音を立てていた。見なくても分かる。これは凌介からだ。

 2人で覗き込んだスマホ画面には思った通り、"長内凌介"の文字が表示されていた。何の合図か、私たちは頷き合った。そして一度、大きく息を吐いてから電話を取った。


「もしもし、ごめん」

『杏ちゃん!今どこ?』

「あ、あぁ、まだ最寄駅。御影となかなか連絡つかなくて……電車に乗っちゃってたから、待ってるの」


 喉がカラカラだ。だけどこれが電話越しで良かったと心底思った。僅かに震える私の声を誤魔化してくれるから。


『わぁ、マジか、お疲れ。やっぱり俺も行くよ、一人で待つの危ないでしょ』

「だ、いじょーぶ!御影ちょうど来たから」


 御影が"俺が電話代ろうか"というニュアンスを含んだ表情を私に向ける。首を左右に振ってそれを断って「心配しないで、今から帰るから」と通話を切った。

 御影と関係を続ける。それはさっきのような、寿命を縮めてしまいそうな嘘を何度も重ねていかなければいけないのだろう。

 バレたら終わり。バレなくてもいつか終わる。御影との関係が終わったとき、私の手元にはなにが残されるのだろうか。



 「また会いたい」と言った私に、御影は「次、どこ行きたいか考えておこう」と、未来の話をする。次がある、それがこれほどまでに嬉しいことを私は今さら思い知った。


「土日は連絡しない。パートが終わる3時までに連絡入れるから」


 それは凌介にバレないための配慮だ。好きなときに連絡が取れない。寂しくても寂しいと言えない。私たちの恋には多くの制約があった。それでも、2人で同じ時間を過ごせる可能性がある、それだけで全てが報われる気がした。


 そして、「大丈夫か?」と何度も心配する御影に「大丈夫だから」と何度も念押して私たちは別れた。




 私が家へ帰ると、凌介は玄関前で待っていた。


「おかえり、ほんと心配した」


 あの後見返したスマホには凌介からの不在着信が数件残されていた。飛び出すように家を出た妻と連絡がつかないとなれば、それはそれは心配だろうと思う。私は再び「ごめんね」と謝罪の言葉を口にした。


「まぁ、鍵渡せて良かったね」

「ほんとほんと!御影、めっちゃ感謝してたよ」

「鍵無くしたとか絶望だよな〜」


 凌介は絶望している御影を思い描いているのか、どことなく楽しそうだ。


「でもさ、よくあの鍵が御影の家のものだって分かったよね、杏ちゃん」


 ひゅっ、と吸い込んだ息が喉の奥で止まる音がした。凌介は純粋な感想を述べただけだ。そこに私と御影の関係を疑うような気持ちは微塵もない。それは凌介の明るい声音が証明している。勝手に不安になって焦ってはいけない。靴を揃え終わった私は、笑顔を貼り付けて凌介へ向き直った。


「え〜?だって、あのマスコット見た?バレーくんだっけ?」

「いや、バリーくんね」

「そうそう、バリーくんだ。あんなのつけてるの、絶対御影でしょ」


 御影の鍵には、バレーボールのマスコットキャラクターである"バリーくん"がつけられていた。私と出会った頃の凌介のボールペンについていた物と同じキャラクターだ。


「たしかに!え、って、それ遠回しに俺のことも馬鹿にしてるね?」

「してないしてない!人の趣味嗜好は自由だからさ!」


 内心で冷や汗をかきながら、表面では涼しい顔で嘘をつく。私の口からは淀みなく嘘が流れて、私はまた新たな私を知る。

 御影との関係を続けていくために、どれほど多くの犠牲を出すのだろう。もうあの頃の私には戻れない。細胞ごと塗り替えられてしまえば、私は私ではなくなる。その事実に、少しの躊躇いもなかった。

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