第7話.ひどい話をするから聞いてて

 やっぱり人妻ってのは、後腐れなく性行為できる最高の相手だよね、ってことに帰着した。もちろん主語を大きくするつもりはない、と断った上で、そう思っている男の人が多いのだということだ。

 夫から女として見られない、だけど女として愛されたい。そんな風に愛に飢えている女は与し易いだろう。それに守るべき家庭やしがらみがあるからこそ、人妻は不倫に本気にならない。例え本気になったとしても、体裁があるので無茶なことはしない。そりゃ、不倫の事実が露呈すれば慰謝料を請求される危険はあるが。しかしバレなければいいのだ。バレなければ罪ではない。罪でないものは裁けない。

 きっとそういうことだ。御影もそう思って私に近づいたんだ。良かった。深くハマる前に御影の思惑に気づけて。友達のフリして近づいて、あわよくばって思ってたんだよ。そういうことにしておこう。そういうことにさせておいて。


「おはよ〜」

「おはよ。朝ごはんできてるよ」

「ありがと〜」


 凌介はスマホでニュースをチェックしながら、トーストに齧り付いた。そして「あ、そうだ」とまだ眠そうな目をこちらに向ける。


「ん?」

「御影と連絡取った?」

「え、なんで?取ってないけど、」


 髪の生え際から嫌な汗がじとりと湧き出た。いやいや、私と御影はやましい関係じゃないから。何も始まっていない。始まる前に終わってしまった。


「え〜?!取っといてよ!ご飯食べようって約束したじゃん!」

「あっ、あぁ!あ、そっかそっか。忘れてた……あは、……今日連絡しとくよ」

「お願いね〜、頼んだよ」

「うん。絶対、約束ね」


 ほらね、凌介はちっとも怪しんでいない。それは今までの私が、浮気やら不倫やらということと無縁だったからに他ならない。つまり信頼してくれているのだ。良かった、凌介を裏切るようなことにならなくて。

 こうして、一つ一つ良かったことを掻き集めて、私は自分の気持ちに折り合いをつけようと必死だった。そうでもしないと、以前のように笑って毎日を過ごせる自信がなかった。





 御影が「これ、心ばかりな物だけど」と凌介に手渡した袋は、今人気のスイーツ店のものであった。


「わ!これ会社の女の子たちがめっちゃ美味いって言ってたとこのじゃん!ごめんね〜」


 それを嬉々として受け止った凌介は「ほら、杏ちゃんも食べてみたいって言ってなかった?」と、私に袋を掲げてみせた。


「ほんとだ。すごい並ぶって聞くよ。大変だったんじゃない?ありがとう、国枝さん」

「いえ、そんな!私はただ一緒に並んだだけなので!」


 胸元で手を左右に振り謙遜する国枝さんの小さな爪には、綺麗なネイルが施されていた。艶々の桜色。くるんと上がったまつ毛。枝毛なんて無さそうな毛先には緩いカールがついている。

 私だってそれなりに身だしなみには気を使っている。だけどそれが独身の頃と比べてどうかとなれば、時間もお金も圧倒的に足りなかった。水仕事をするときには必ずゴム手袋をつけてるのに、それでも国枝さんの桜色の爪やムラのない肌には敵わない。隠すように自分の手を握り締めた。




 テーブルに置かれた料理を見た国枝さんは「すごいです!これ、全部杏さんが作られたんですよね?」と、瞳を輝かせた。


「ありがとう。お口に合えばいいんだけど」

「杏ちゃんの料理はぜ〜んぶ美味しいんだよ」


 御影と連絡を取り、日程を決めた後、「お店の予約しなきゃね」と言った私に、凌介は「ここに来てもらおうよ」と言ってのけた。家に呼ぶということは、それ即ち、私が手料理を振る舞わなければいけないということだ。いや、別にいいのだ。幸いなことに、私は料理をすることが好きだし、家に人を呼ぶことにも抵抗はない。だけど、私の都合を聞くことなく勝手に決められたことにムッとした。

 そんな時ふと、凌介の友達に言われたことを思い出す。


「こいつ、見てくれはいいけど中身は幼稚だから。餓鬼みたいなことされたらガツンと怒った方がいいよ」


 私にそう忠告をしてくれたのは、凌介と幼稚園からの幼馴染の子だった。

 これはガツンと怒る場面か?と考え込んだ私に、凌介は「あれ、ダメだった?」と途端に不安そうな声を出す。


「いや、ダメっていうか、家に来てもらうのは全然いいんだけど」

「やった〜!杏ちゃんの料理が世界一美味しいもんね!御影に自慢できて嬉しい」


 子供みたいに全身を使って喜びを表す凌介を見ていたら、怒る気が削がれてしまった。

 

 それが2週間ほど前。"御影に自慢できる"と楽しみにしていた凌介は、「うまっ!」と言いながら私の手料理を食べている御影を見てご満悦なようだ。


「ねぇ、そうだ。御影と国枝さんって、どうやって知り合ったの?」


 食事が落ち着き出した頃、凌介がポロリと溢した言葉に私の箸の動きが止まる。聞きたくない、と咄嗟に思って、適当な用事を思いついたフリをしてこの場を離れたかった。


「えっと、……言っていいの?」

「ん?ああ、別に。コンパだよ、合コン」


 それなのに私が用事を思いつく前に答えは投げられて、生々しい2人の出会い方にその場から動けなくなった。


「合コンかぁ。楽しそう」

「おいおい、その言葉は危険だぞ」


 "合コン"という単語に声を弾ませた凌介を御影が咎める。ちらりと私を窺うような視線を寄越し、傷ついてはいないかと気にかけてくれているようだ。


「凌介、合コン行きたいの?」

「ん〜?俺が行ったら、杏ちゃんはどうする?」

「あはっ、そしたら私も合コンに行くね」


 残念だけれど、私はこんなことで傷つくほど繊細ではない。それどころか、凌介が不倫してくれたら、私も心置きなく御影と……と酷いことを考えてしまう恐ろしい女なのだ。


「え?!うそうそ!俺が合コン行くわけないじゃん!俺は杏ちゃんのことが大好きだからね。世界で一番!杏ちゃんしか考えられないよ」


 私のセリフを売り言葉に買い言葉の冗談だと分かっていながら、凌介は今にも泣き出しそうな声を出した。そんな愛の告白を聞いた国枝さんが「きゃ〜」と歓声を上げる。


「こんなに愛されて、杏さん幸せですね」

「ん?うん、……幸せ」


 そう、もちろん幸せは幸せなのだ。嘘ではない。



 同級生が集まれば、必ずと言っていいほど青春時代の話をしてしまう。悩んだことも、悲しかったことも、笑い合ったことも、頑張って報われなかったことも、ありふれた日常も、全部全部宝物のように眩しい。


「え?!長内さんって、名城のキャプテンだったんですか?」

「そうだよ〜」

「しかもファンクラブまであったんでしょ?」


 私が揶揄うように告げれば、国枝さんは面白いほど目を見開いた。感情が素直に表情に表れて、本当に純粋な良い子なんだろうな、と思う。ふわふわとした見た目に反し、しっかりとした受け答えから利発さが垣間見える。好感しか持てない。御影の彼女じゃなかったら、「あんないい子絶対逃しちゃダメだよ!」と、お節介な助言をしていただろう。


「ふぁ、ファンクラブですか?!すごい……漫画とかドラマの中だけだと思ってました!」

「ちょっと、恥ずかしいから〜!いや、まぁ、確かにモテてたけどね?」

「もう、調子に乗ってる……!」


 御影は私たちの会話に入らず、ちびちびとお酒を口に運んでいる。


「俺もモテてたけど、御影もモテたんじゃない?」


 それなのに急に凌介に話を振られたもんだから、「え?」と顔を歪ませたまま咄嗟の言葉が出ないようだ。


「御影はモテてたよ」

「え〜?そうなんですか?今もモテてるみたいですよ」

「いやいや、モテてないからね……」

「えー?!今もモテてるの狡いー!!」


 国枝さんの言った"今もモテてる"という言葉に、心臓が嫌な音を立てた。関係ないから。御影がモテてようが、モテてなかろうが、私には関係ないから。そう思うのに、上手く笑えない。


「御影は思わせぶりだから。天然タラシなんだよ」

「杏さん、それめっちゃ分かります!徹志さんって、そういう所ありますよね」

「言われてるよ、天然タラシ」


 女2人に責められて、御影はタジタジなようだ。「えー?俺知らねーし」と、グラスに残っていたお酒を一気に煽った。


「ね、じゃあさ、杏ちゃんは?杏ちゃんの高校時代はどうだった?」


 お酒を飲み干した御影に、凌介が楽しげに疑問をぶつけた。「私のことはいいから」と話を中断しようとしたが、凌介は「よくない!俺が聞きたいの!」と、子供のように駄々を捏ねた。


「塚原は、」

「御影、ほんといいから」

「塚原はモテてたよ」


 なぜかこの場が沈黙に包まれた。御影の声音は、私をあの頃に誘うように穏やかで優しい。まるで愛を紡いでいるような雰囲気すら感じてしまう。しかしそんな異様な空気を察した私は「嘘言わないでよ!」と、不自然なほど明るい声を出した。


「御影、冗談やめてよー!私モテてなかったから」

「塚原が知らなかっただけで、モテてたよ」


 ごくりと喉が鳴る。御影、その眼差しを今すぐやめて。どうしてそんなに優しく目を細めるの。それが思わせぶりだと言っているのだ。私の夫もいる。御影の彼女もいる。それなのに、私は御影へ伸ばしてしまいそうになる手を必死で抑えていた。


「明るくて、みんなに平等に優しくて、頑張り屋で、みんな塚原のこと好きだった」

「あはは〜、照れる……!」

「わぁ、やっぱり杏ちゃんは昔から杏ちゃんだったんだね」


 俺ってば、最高な奥さんを手に入れられたんだなぁ、と、凌介の能天気な声がこの場の唯一の救いだ。


 御影の手放しな褒め言葉を聞いて、私は嬉しくなるどころか居た堪れなくなった。だって、御影の中の綺麗な私はもういないのだ。今は、堂々と御影の横に座る国枝さんを恨めしく思う、醜い嫉妬に囚われた愚かな私しかいない。




 遅くなる前に帰るよ、と言った2人を21時前に見送り、私は片付けに取り掛かった。食器類は御影と国枝さんがシンクに運んでくれたので、とりあえずテーブルを拭こうとした私の足は硬い何かを踏んづけた。


「いったぁい!なんか踏んだ!」

「え、大丈夫?!」

「あ、鍵だ……これ、御影の家の鍵だ」


 それを拾い上げれば、確かにあの日見た鍵であった。


「これ、絶対まずいよね?」

「家入られないんじゃない?連絡してあげなよ」

「……届けに行ってくる!まだそんな遠くに行ってないと思うし」

「えっ?!待って、夜遅いし危ないよ、それなら」


 俺が行くから、と、凌介は確かにそう言った。だけど私は聞こえていないフリをして、廊下の壁に掛けてあるコートを引っ掴んで、家を飛び出した。

 おかしいでしょう。笑っちゃうでしょう。私だって、今の自分がどれほど浅慮で馬鹿げているか、そんなこと百も承知している。ただ、分かった上で御影にもう一度会いたかった。2人で、触れることを咎める人がいない世界で、御影に会いたかった。

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