第6話.息継ぎの仕方を忘れた
お酒で熱った頬に冷たい夜風が気持ちいい。さすがに足がふらつくほどは飲んでいないが、いつもより陽気になるぐらいには飲んだ。
「めーっちゃ美味しかったー!」
「美味しかったね〜」
「特にウニの卵かけご飯が美味しかった」
私の舌は繊細ではない。割と何でも美味しくいただけるし、正直違いなど分からない。そんな私でも感動するほど、今日のお寿司屋さんは全部が美味しかった。美味しいと表現することしかできない語彙力が恨めしい。
「分かる、めっちゃ旨かった」
「ね〜?ほんとありがと、凌介」
「杏ちゃんの幸せが俺の幸せだからね。誕生日おめでとう」
そう言った凌介が私に手を差し出した。外で手を繋ぐなんていつ以来だろう。もしかしたら一年前の私の誕生日ぶりかもしれない。そっと重ねると、凌介は緩い力で私の手を握った。
「杏ちゃんの手、あったかいね、相変わらず」
「人間湯たんぽだからね」
冷え性とは無縁の私の足を、ベッドの中で湯たんぽ代わりにしている凌介を思い浮かべる。凌介もきっと同じ場面を浮かべているのだろう。私と凌介の間にはありふれた思い出がたくさんあるのだ。そんな日常の積み重ねが愛だと分かっているのに。私はその愛を踏み躙ってまで御影とどうにかなりたいんだろうか。
行きは電車に乗ってきたが、「歩いて帰りたい」と言った私の気まぐれで、2人で夜道を歩いていた。
「明日が日曜日で良かったね」
「そうじゃなかったら、電車で帰ってるよ」
凌介の爽やかな笑みが街灯に照らされている。まだ寝静まるには早い時間だが、住宅街なので声を潜めながら会話を交わした。こんな時間なのに犬の散歩をしている人もいるようだ。首輪についているであろう鈴が、リンリン、と犬の歩調に合わせて鳴っていた。
「さむーい」
「だから電車で帰ろうって言ったのに」
「いーの、歩きたかったの!」
「はいはい、お姫様」
揶揄う凌介の口調はどこまでも優しい。それは逃げたくなってしまうほどだ。おかしいでしょう。優しくされればされるほど、逃げたくなるだなんて。
この住宅街の道路には等間隔で街灯が設置されていた。だから夜だというのに、割と遠くまで見ることができた。防犯の観点からいえば素晴らしいのだろう。しかし視界が良いと見たくないものまで見えてしまうみたいだ。
「あ、」
声に出して失敗したと思った。気づかぬふりをするべきだった。きっとそれを相手も望んでいたと思うし、私にとってもそれが最善だった。しかし、予期せぬことに遭遇すると咄嗟の判断などできないのだ。
私の声を不思議に思った凌介が、私の視線を追う。そして私が見つめたあちらもこちらを見つめ返し、同じように「あ、」と声を出した。
「なに?知り合い?」
街灯のお陰でよく見える、と言っても、所詮は夜。明るい昼間には敵わないし、よく見知った人物じゃなければ素通りしていただろう。その証拠に、凌介はまだ誰か分からいようでジッと目を凝らしている。
「あ、ほら、」
「あ!御影か!」
「おぉ、やっぱり長内か」
私がその人物の名前を告げる前に、気づいた凌介が明るい声を出した。それに弾かれたようにハッとした御影が和かに応える。
「すごい偶然だな!なに?ここら辺に住んでるの?あ、この前はありがとな、杏のこと送ってくれて」
「いやいや、全然。夜遅かったしな。俺じゃなくて、彼女がこの辺りに住んでるんだ」
そう言った御影は彼の横に立った女性へ視線を移した。御影の好きそうな可愛らしい女性。私たちよりいくらから年下だろうことが分かる。
「彼女?!可愛らしい方だね。はじめまして、僕、長内凌介って言います」
「いや、彼女は、」
「はじめまして。私、国枝つむぎと言います。えっと、そちらは、」
「あ、彼女は俺の、……長内の、奥さん」
「初めまして。長内杏です」
笑えているだろうか。冷や水を浴びせられたように熱が引いていく。なにを勘違いして、浮かれていたんだろう。御影が私を見つめる愛しげな眼差しに、何も特別な感情などなかった。そもそもそれすら、私の自意識過剰の思い込みだったのだろう。情けなくて、恥ずかしすぎて今すぐこの場から消えたい。
「長内とは高校のときに同じ部活をしてて、大会でたまに顔を合わせてたんだ」
「あ、じゃあ、長内さんもバレーされてたんですか?私もしてたんです」
「え、そうなの?!どこのポジション?」
「セッターです」
「お〜!俺と同じじゃん!」
凌介と国枝さんはバレーの話で盛り上がり出した。やはり共通の話題があるということは、仲良くなる近道らしい。
私といえば、ニコニコと作り笑いを浮かべ、ひたすらに凌介の楽しそうな横顔を見つめ続けた。御影の顔はチラリとも見れない。それはどんな顔をしてしまうか分からないから。時折、御影からの視線を感じたのは気のせいだろうか。間違いなく気のせいだ。だって私は、友達の好意を捻じ曲げて解釈してまうほどの、救いようのない自意識過剰人間なのだから。
「あっ!てかごめん、行くとこあったんじゃない?引き止めちゃったね」
「いや、俺らはもう解散するところだったから。な?」
「はい!長内さんたちこそ大丈夫でしたか?」
国枝さんが窺うように私の顔を覗き込んだ。
「ううん、私たちも家に帰るところで」
「今日、杏の誕生日祝いに外食してて、その帰りなんだよ」
「えっ?!そうなんですか?おめでとうございます〜。素敵ですね」
「……ありがとうございます。それじゃあ、帰りますね」
余裕のある笑みを貼り付けて、なんとか心を保つ。
「おう、引き止めて悪かったな」
御影の言葉に反射的に顔を見てしまって、失敗したな、と思った。交わった視線に心臓が一度、大きく戦慄いた。ぎゅっと、強く、抱きしめられた感覚に苦しくなって、何故だか泣きそうになった。
「そうだそうだ!ここで会ったのも何かの縁だしさ、また4人でご飯でも食べに行こうよ」
凌介は人懐っこい。人の懐に入り、すぐに仲良くなることが得意だ。だけど今ここで、御影とその彼女を相手に、その特技を発揮しなくても。
「わぁ、いいですね!楽しみにしてます!」
何も言わない御影に代わって、国枝さんが明るく答えた。
2人と別れた凌介は上機嫌に鼻歌を歌う。旧知の仲である御影と会えて、久しぶりにバレーの話ができたことが余程嬉しかったのだろう。
「この前は挨拶出来なかったしな」
と、マユコの結婚式の夜のことを思い出して呟いた。その日は部屋の前まで送ってくれたが、「凌介、多分寝てるから」と御影を帰らせたのだ。結局凌介は起きて私を待っていて、帰る御影の背中を見つめていたけれど。
「御影の彼女の国枝さん、可愛いかったね」
「え〜?そう?確かに可愛い系かな」
「あれ〜?ヤキモチ?もちろん杏ちゃんが世界で一番可愛いよ」
「……ありがと」
あはは、と苦笑いと共にお礼を述べた。別にそんなことにヤキモチを妬いていたわけではない。高校生の頃から変わっていない御影の女の趣味に腹を立てたのだ。お門違いの八つ当たり。酷く自分勝手で幼稚な女だ。
「なにイライラしてんの?」
「もー、しつこい!」
八つ当たられた凌介は「え〜」と、私を非難する声を上げた。
▼
世界に色がなくなることって、本当にあるらしい。あの夜から、私は悶える日々を送っていた。自分自身の愚かさと羞恥心に打ちひしがれていたのだ。しかしいくら私の世界に色がなくなろうと、意気消沈しようと、地球は回るから時間は過ぎる。私は今日も今日とてパートだ。
私が働いているパート先のパン屋はカフェが併設されていた。パンの販売とカフェの仕事はきっちりと分けられており、今日の私はカフェ担当であった。
お客様が帰った後のテーブルを綺麗に片付けパントリーへ戻った私に、パート仲間の酒井さんが「あっちにかっこいい人来てるよ」と興奮気味に囁いた。酒井さんが言う"あっち"とは、パンの販売をしている側のことだ。
「え、見たい!どこですか?」
「見て来なよ。実は、私もさっき見て来たの。モデルみたいに背が高かったよ〜」
「じゃあ、私も見て来ますぅ」
いくつになってもイケメンを見るのは楽しい。パン屋側を覗けば、私と目が合った社員さんが「あ!ちょうど来ました」と声を出した。
「長内さん!長内さんにお客様です」
「え、私にですか?」
こっちこっちと手招きされて、売り場が見渡せるレジまで足を進めれば、気まずそうな御影が「よぉ」とこちらに手を上げた。
「御影、」
「突然すみません。僕、長内の高校からの友達で」
御影は誰に言い訳をしているのかーーきっと私が色々と噂されないように気を遣ったのだろうーー私たちの関係をきっちりと説明した。
「そうなんですね。長内さん、せっかくだから今日もう上がっていいですよ」
「え、でも……」
「いやいや、そんな。僕、今日休みなので。待ってます」
そう言った御影は私に目配せをして、持っているトレーをレジに置いた。どうやらカフェでパンを食べながら時間を潰すようだった。
午後3時。時間きっちりに仕事を終えた私は、御影が待つ店の前に小走りで向かう。
「御影、お待たせ」
「いや、全然」
同じようにぎこちなく微笑んで、「ちょっと歩くか」と言った御影の横に並んだ。
「なに、突然。ほんと驚いた」
「……うん、ほんとごめん。ただどうしても説明したくて」
「説明?えー、なんの?」
惚けながら、本当は分かっていた。
「この前、夜に偶然会っただろ?その時横に居た国枝さんについて」
「あ、あ〜、あの日はほんとビックリしたね。あんな偶然ある?って」
案の定、御影は私の思っていた通りの話題を口にした。私は必要以上に明るく答えて、気にしていない風を装った。
ただ、驚いたことは本当であった。今まですれ違うことなどなかったのに。縁が交わってしまえば、こうも会えてしまうのか、と。本当に驚いて、同時に悲しくなった。私と御影の人生が再び重なったのが、どうして今なのだろう。もっと早く重なっていれば、御影の横にいるのは私だったかも知れないのに。
「いや、それなんだけどさ、」
「国枝さん、御影のタイプそのままって感じだったね。キュルキュルン系!」
「…………そうか?」
「そうだよ〜!相変わらず好きなタイプ変わってないなぁ、って思ったよ」
私がカラカラと笑うと、御影は少し目を伏せ、そして一言、「ごめん」と呟いた。
「なにそれ、なんで謝るの?」
その"ごめん"は、"お前のことなんて好きにならないよ"と、"勘違いして俺のこと好きになるなよ"と言っているような響きを持っていた。
私は途端にプライドを傷つけられた心地になって、そしてそれに思ったよりダメージを受けている自分に気づいて、それがまた耐えられないほど恥ずかしくて。御影に、そんな矮小でつまらない私を知られたくなかった。
「もしかして私が御影のこと好きって思ってる?」
「いや、そんなこと」
「だよね。やだ、やめてよ〜。私は御影のこと、友達だと思ってるし、そのつもりで会ってたよ?私は不倫するような愚かな女でも、安い女でもないし。……それは御影も知ってるでしょ?」
御影が言葉を挟む余地がないほど捲し立てた。本当の私は薄汚く愚かな女だ。だけど、それを知るのは自分だけでいい。
「そうだよな。お前は不倫なんてしないよな」
「そうだよ。御影のこと好きになんてならないから、これからも友達として遊ぼうね」
御影の瞳には、高校生の頃のような純粋で穢れのないままの私が映っているだろうか。本当の私を知られたくないと思いながら、全てを知って深く愛してほしいと、そう願ってしまうのは、やはり滑稽だろうか。
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