第3話.煌めく底なし沼

 少しの物音も頭に響く。しかし家事は私を待ってはくれない。息も絶え絶えに起き上がった私に、凌介は「寝てなよ」と声をかけた。


「ありがと……でも、二日酔いで使い物にならないって、さすがに」

「まぁまぁ、たまにのことなんだから」


 大人として終わってない?と私が言う前に、凌介が慰めてくれる。優しい。

 しかし今日は月曜日。カレンダー通りに出勤している凌介はもちろん仕事なので、これ以上頼るわけにはいかない。辛うじて凌介を見送った後、私はソファへ倒れ込んだ。こんなこともあるかも、と念の為パートの休みを取った1ヶ月前の私を褒めてやりたい。


 再び寝入ろうとウトウトし始めた私のスマホがメッセージの到着を知らせる。その瞬間今までの緩慢とした動きは演技だったのか?と思ってしまうほど、私の手はスマホを素早く引き寄せた。一応断っておくが、二日酔いで死にそうになっていたのは勿論演技ではない。なんなら今も気分は悪い。


「あ、なんだ、違うじゃん」


 トークアプリに届いていたのは、いつも同じ時間に配信されるスポーツ紙からのメッセージだった。不倫をして世間を騒がせている俳優が活動自粛を発表した、というニュースがでかでかと表示されている。

 正直どうでもいいと、スマホを元あった場所に戻そうとした手を止めた。そして徐に友達一覧を開き、昨日登録されたばかりの御影のアイコンを見つめる。高校生だったときに「俺んち猫いるんだよね」と言っていた。御影のアイコンはその猫だった。昨夜のバーで「もう亡くなって5年になるけど」と切なげに伏せられた御影の瞼を思い出す。

 私はそのアイコンをそっとなぞった。今までどうして御影を忘れていることができたんだろう。今では記憶の中の高校生の御影さえ、驚くほど鮮やかに思い出すことができる。

 たった一人。トークアプリの友達が増えただけだ。それなのになぜ、これほどまでに浮き足立ってしまうのか。メッセージの通知がくるたび、もしかしてと期待してしまうのか。御影と繋がったスマホは宝石のように煌めいていた。





 午後になれば二日酔いは随分とマシになっていた。これなら晩ご飯は作れるぞ、と気合を入れるためにエプロンを身に纏う。普段は面倒だと着けないが、どうしても気合いが入らないときだけはそうするようにしていた。腰紐をキュッと結べばなんとか頑張れそうな気がするのだ。

 本当は凌介の好きなイクラやマグロで海鮮丼でも作ってあげたいところなのだが、生憎買い物に行く気力がない。なので買い置きしていたサンマの塩焼きをメインにすることにした。


 仕事から帰ってきた凌介は今晩のメニューを見るなり「魚じゃ〜ん」と声を明るくした。その喜びようを目にすると、焼いただけなんだけどね、と少し申し訳なくなる。やっぱりお刺身買いに行ってあげれば良かった……と後悔しても遅い。


「お風呂先に入る?」

「ご飯にする〜」


 仕事で疲れているだろうに、凌介は基本的に疲れた顔を見せたりしなかった。今日も満面の笑みを浮かべて食卓に着く凌介を尊敬してしまう。いつもニコニコとご機嫌な、本当に最高な夫だ。


 合間に「おいし〜」と感想を挟みながら、凌介は丁寧に食事を進めていく。そんな最中、ふと思い出したように「昨日家まで送ってくれたのって、アレ、キャプテンだよね?清光の」と、凌介の箸が止まった。

 清光とは私と御影が通っていた高校のことだ。昨日送ってくれたキャプテンとは、もちろん御影のことを指している。


「そうそう、覚えてる?御影徹志って名前の」

「あぁ、覚えてるよ。俺らが出会ったときも『仲良かった』って言ってたもんね、杏ちゃん」


 凌介のその言葉で思い出した。そうだ、バレー部と御影の話がきっかけで、私と凌介の距離が縮まったんだ。




 私と凌介の出会いは仕事先であった。なんてことはない。私が勤めていた会社に凌介がやって来て知り合った。それだけのこと。

 凌介への最初の印象は"軽っ!女取っ替え引っ替えしてそ〜"というなんとも最低なものであった。しかしそう感じてしまうのも納得できるほど、凌介は馴れ馴れしかった。だって普通、取引先の社員をーー仕事を直接一緒にするわけではなかったがーー「杏ちゃん」なんて呼ぶ?!親しみの込め方が間違ってるし、距離感がおかしい。凌介の軟派な格好良さも相まって、そんな最低な印象を抱いたのだ。

 そんな凌介との距離が縮まったきっかけが、凌介のスーツの胸元から覗いた、有名なバレーボールのマスコットキャラクターであった。


「長内さん、バレーお好きなんですか?」

「え、なんで分かったの?」


 それ、と私がボールペンの先についたマスコットを指差せば、凌介は「俺めっちゃダサいね」と顔を赤くした。


「ダサくないですよ。高校の時に仲良かった子がバレー部でした」

「マジで?!俺もバレー部だったよ!杏ちゃんってどこの高校?確か俺ら同い年だよね?」

「清光です。知ってますか?男子は割と強かったみたいで」

「わ、マジか。知ってるわ。仲良かった子って誰?男?」


 矢継ぎ早に並べられた質問に「御影徹志って男の子なんですが」と答えれば、凌介は「おー、知ってるー!あの、……賢そうな奴ね!」と何とも言えない微妙な間を取り、御影を褒めた。その不自然な間はきっと本当に言いたいことを躊躇したものだろう。凌介が抱いた御影の印象の本音は今もまだ聞けていない。

 仲が良く信頼していた友達のことを知っていた。盛り上がれる共通の話題があった。この2点が私の心の扉を開いた。そこからはトントン拍子で付き合い、結婚をして夫婦になった。なにせ付き合ってから結婚するまで、1年もかからなかったのだ。




「御影も凌介のこと覚えてたよ」

「へぇ。嬉しいな」


 曇りない凌介の笑顔を直視することができなかった。それはきっと、私が凌介に隠し事をしてしまったから。昨日御影と2人で飲んだと言えなかった。凌介には何人かで飲んだと伝えてある。

 一つ、本当に小さな、目を凝らしても見えないほどのシミ。だけど確かに、私の心に落ちた。そのシミがこれ以上大きくならないことを願って、私は凌介に笑顔を返した。





 高校一年生の2学期の初め、私は大量の漫画を抱えて登校した。


「めっちゃ重かった……」

「え、マジでそんな持って来てくれたの?!感謝〜」


 ドンっ、という音を立てて漫画を机に置けば、マユコは早速一巻を手に取った。


「だめだ、今読み出したら止まんないね」

「あはは、確かに!てか、マユコこれ全部持って帰るってヤバいね?」


 顔を見合わせてキャハハと笑う。箸が転んでもおかしい年頃というのもあながち間違いではないらしい。


「ちょっとずつ持って帰りなね?」

「え〜、でも続き読みたくなったらツライしなぁ〜」


 マユコは「うーん」と悩ましげな声を出した。


「お、それ関根の?」

「あ、御影じゃん。おはよー」

「おす。で、それ関根の?」

「あぁ、これ?これは杏のだよ」


 それ、これ、と言いながら、マユコと御影くんは私が持って来た漫画を指差す。


「わ、マジか。塚原さん、漫画好きなの?てか、ボボ読むんだ?」

「お兄ちゃんが好きで、私も一緒に読んでるの。家に全巻あるよ」

「えー、マジで。5部まで?」


 男バレ所属の御影くんはこのクラスの誰よりも背が高い。それだけでも十分な威圧感なのに、彼の小さな黒目がその圧をより強いものにしていた。しかもいつも男子と馬鹿騒ぎしていて、この前なんか人目も憚らず教室内でグラビア雑誌を広げて「この胸の形が、」やら「尻の大きさが、」やらと猥談を繰り広げていたのだ。

 そんなことも相まって、私は御影くんをなんだか怖いと思っていたし、極力近寄らないようにしていた。しかしどうだろう。私に和かに話しかける御影くんは、その印象を覆すように爽やかな笑みを浮かべている。


「そう、5部まで」

「なに?御影も読んでるの?」

「読んでるっつっても1部まで。続き買いたいんだけど、俺んち置くとこねーし」


 私がマユコに貸すために持って来た兄の漫画ーーもちろん兄には許可を得ているーーは、私たちが生まれる数年前から連載を開始した人気漫画だ。第1部から始まったそれは、今では第5部まで続いており、幅広い世代でたくさんのファンを獲得している。


「漫画って嵩張るよね」


 御影くんの言葉に賛同すれば、彼は「まぁ、なー?」と曖昧な相槌を返し、それから何を閃いたのか「あっ!」と声を上げた。


「塚原さんさ、俺にも貸してくんない?」

「え〜、御影厚かましい〜」


 マユコに揶揄われた御影くんは「お前は関係ないから黙ってろ?」と、マユコの頭を軽く小突いた。「暴力はんたーい」と非難しながらも、マユコは楽しそうに笑っている。


「で、どうかな?」

「あ、うん、マユコの後でいいなら私は全然」

「よっしゃー!ありがと、塚原さん!」


 満面の笑みで、御影くんは私の手を握った。その行為にはなんら特別な感情はない。御影くんは感謝の気持ちを最大限伝える手段として、私の手を握ったのだ。

 背が高くて、いつも寝癖のついた頭の御影くん。男子と馬鹿騒ぎをして、エッチな話が好きな御影くん。揶揄われながらもなんだかんだと慕われている御影くん。意外と真面目で成績も良い御影くん。男女分け隔てなく接する、スキンシップの多い御影くん。そんな彼は勘違いされることも多く、いろんな女の子から言い寄られていると、マユコが言っていた。だからこれは特別な行為ではない。だから胸をときめかせてはいけない。変に期待をしてはいけない。

 口を引き結んで無理矢理笑った私の表情を見て、御影くんは訝しむように眉根を寄せた。





 凌介がお風呂に入っている、その丁度のタイミングでスマホが鳴る。シンクの片付けを放り出してスマホを見れば、画面には"御影徹志"の文字と、猫のアイコン。いそいそと開いたメッセージを何度も読み返した。


『ボボの映画観に行かね?』


 それは読み返す必要性のない端的なメッセージ。ボボ第4部のリメイクアニメがつい先週から上映されていた。

 御影は人との距離感がおかしい。御影がすることに一々心を傾けてはいけない。それなのに気を抜けば期待しそうになってしまう私の心を嗜める。

 そもそも私は結婚しているのだ。浮き足立つことさえ最早罪であり、凌介への裏決りではないのか。分かっているのに、私の心の変化に気付かぬふりができない。それならせめてこの誘いは断るべきだ。そこが地獄だと分かっていながら、自らを見す見す追い詰めるなど愚の骨頂。


『いいね。観たいと思ってた』


 なのに僅かな葛藤の末、私の指先はそのメッセージを送信していた。私と御影はただの友達。友達同士で映画を観にいくことを咎める人は誰もいない。

 そうやって誰にあてたか分からない言い訳を並べて。凌介へ「マユコと映画観てくるね」なんて、平然と嘘をついて。

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