第4話.気づかないでくれたらいいよ

 日本人の平均身長よりうんと背の高い御影は遠くからでもよく見えた。凌介も同じぐらいあるが、夫婦になって6年。彼と待ち合わせをすることなどもうない。だからこの感覚は随分と久しぶりのものだ。


「御影!」

「お疲れ、突然悪かったな」


 御影がひらりと手をあげる。御影の顔が小さいからか、その手はかなり大きく見えた。


「全然!私も観たいと思ってたの」

「旦那は読んでないの?」

「あー、凌介は漫画読まないから」

「……そうか」


 歩き出した御影の横に並べば、ぽつりと「長内に悪かったかな?」と御影は後悔をしているように言葉をこぼした。


「凌介に?なんで?」

「いや、なんでって、」

「私たち友達でしょ?やましいことなんてないじゃん!」


 今ここでそれを口にした御影に少し腹が立った。

 異性の既婚者と2人で映画に行くこと。それがその配偶者にどう思われるかなんて、そんなことちょっと考えれば、いや、考えるまでもなく一番に浮かんでくるべき懸念事項だ。それなのに御影は、私を誘うときにはちっとも気にしていなかったのだろうか。それこそが御影が私をただの女友達と思っている他ならぬ証拠のような気がした。


「そうだな、友達だよな」

「そうだよ!たまたま観たい映画が被った友達!」


 ね、何もやましいことなどないでしょう?だから私を遠ざけようとしないで、と願った本音は心の中で消化した。




 泣いてしまうかも、と心配はしていたが、案の定それは現実のものとなった。シリーズの中でも第4部は最高傑作と言われており、過激なファンもついている。その為このリメイク映画には賛否両論あったが、蓋を開けてみればもう最高としか言えない作品になっていた。元々高くない語彙力が霧散するほどの良作。そりゃあ、泣くなという方が無理だ。


「御影ごめん、すぐ泣き止む……」

「いーよいーよ、泣け泣け。すっげー良かったよな」


 そう言って浮かべた余裕のある笑みは、どこか飄々としている御影らしい。


「はぁ、泣いたらお腹空いてきた……」

「んだそれ。あ、じゃあさ、あそこ行くか!」


 あそこ?私は首を傾けた。ずっと一緒にいた高校生のときなら、すぐに理解できたのだろうか。長い間離れていた今は、こそあど言葉を変換できない。分かっていない私の顔を見た御影は、ニヤリと意味深に口角を上げた。


 御影が"あそこ"と言った場所に近づくたびに、記憶が呼び起こされる。


「わ、懐かしい……」

「な。俺もめっちゃ久しぶりだわ」


 花粉症で死んでた春も、汗に塗れた夏も、ドカ食いで太った秋も、寒さに肌が真っ赤になった冬も、私は3年間、ここの道を通って登下校していた。そう表すとなんて過酷な高校生活だったんだと思われそうだけど、ただただひたすらに楽しかった。どんなことでも出来そうな万能感、無敵感。それは青春時代のみに与えられた特別な魔法だ。


「まだやってるの?」

「あぁ、なんかこの前植田が行ったって」

「そうなんだ。私、卒業以来行ってないよ」

「俺も一回行ったかどうかだなぁ」


 御影が足を止めた場所は、私たちの母校の通学路にある商店だった。日用雑貨に生鮮食品、調味料を取り扱っている他に、清光高校生に向けた駄菓子やホットスナックも売っていた。私たちは学校帰りによく買い食いをしていたのだ。御影の話によれば、先代のおじいちゃん店主はもう引退していて、今はその息子さんが跡を継いでいるようだった。


 その店の外観を見た瞬間、私の心は一気に高校生の頃に引き戻された。


「お前、アメリカンドッグばっか食ってたよなぁ?」

「御影はふ菓子ばっか食べてたじゃん」


 バレー部の御影と陸上部の私。運動部はだいたい終わる時間が同じだった。別にどちらから話を持ちかけたわけではない。ただなんとなく、流れるように私たちは待ち合わせをし、いつも一緒に下校して、「お腹空いたー」って商店で買い食いをしていたのだ。時には歩きながら食べたり、商店の軒先に置いてあるベンチに座って食べたり。


「で、今日もお前はアメリカンドッグね?」

「今日もふ菓子の御影に言われたくな〜い。って、ふ菓子自体久しぶりに見たよ」


 今もあったベンチに腰を下ろし、相変わらずの好物を御影と食べる。どこかのクラスが体育の授業をしているのだろうか。遠くの方で微かに聞こえるはしゃぐ声に耳を澄ませた。


「ついでだから高校の周り歩いてくか?」

「いいね!絶対楽しい!」


 もうふ菓子を食べてしまった御影はベンチから立ち上がり、グッと伸びをした。その誘いに急かされた心地でアメリカンドッグを口いっぱい頬張った私を見て、「ゆっくり食えよ」と、子供みたいな奴だなと呆れたように笑った御影は、やっぱり私の心をやわやわと刺激するのだ。




「お前さ、この坂で転けたよな?」

「えー?あー、あったね、覚えてたの?」

「そりゃ目の前であんだけ派手に転けられたら、嫌でも忘れられねーだろ」


 そんな鈍臭い思い出はとっとと忘れてほしいんだけど、と切に願うが、御影にとっては「死ぬまで忘れてやんねー」と言うぐらい衝撃的な光景だったようだ。


「そんなこと言ったらねぇ、あん時の御影の焦った顔の方がよっぽど忘れられないけどね?」


 なんて、今の今まで忘れていたくせによく言う。しかし鮮明に思い出した、必死な御影の顔。私はもう忘れたりはしない。


「そう、俺あん時必死だったんだよ」


 御影はいつも飄々としており、どこか掴み所がない人物だった。それが彼の魅力でもあり、私の知る限りでも数多の女の子が、その隠された心に触れたいと御影に夢中になった。そうだ、だから御影に彼女が出来たときは多くの女の子が泣いていたっけ。

 そんな御影があの時ばかりは感情をこれでもかと表に出していたんだ。学校の裏手にある急な坂でずっこけて怪我をした膝の痛みより、私はそのことばかりに気を取られていた。誰も知らない御影を知れたようで、嬉しかったんだ。


「今日は転けんなよ」

「やだ、私もう32歳だよ?さすがに転けないっ、キャッ……!」

「コントかよ」


 言わんこっちゃないとほとほと呆れながら、躓いた私の腕を御影の大きな手が掴んだ。ジンジンと痺れを感じる程強く握られているのに、心臓の音に掻き消されてちっとも気にならない。


「あは、ごめん……、危機一髪」

「32歳になったばっかの日に転けるとか、縁起悪いことにならなくて良かったな」

「……え?なんで、」


 恥ずかしさに俯けていた顔が反射的に彼を見つめた。戸惑いに揺れる私の瞳を御影が優しく見つめ返す。


「塚原、誕生日だろ?今日。おめでとう」


 どうしてそんなこと覚えてるの。率直な疑問は私の意に反して自然と口を衝いて出た。目を丸くした私とは対照的に、御影は今もなお柔らかに目を細めている。


「そりゃ覚えてるだろ?俺らあんなに仲良かったじゃん」

「あ、……そっか、そうだよね」


 当たり前だろ?とでも言いたげに言い切った御影の言葉を受けて、私は更に戸惑った。

 御影にとっては高校時代の友達の誕生日を覚えていることが普通なの?そんなの忘れてる方が普通だよ。だってどれほど経ったと思ってるの?もう14年だよ?その間私たち、一度も連絡を取ってないんだよ?

 口では納得したような言葉を吐きながら、頭の中ではそれを否定する言葉を並べた。


 私の困惑をそっくりそのまま映したかのような空模様は、立ち止まっている間にいよいよ雲行きが怪しくなってきた。さっきまではなんとか天気がもちそうかな?と思っていた空は、今にも雨を降らしそうな重い雲を浮かべている。


「曇ってきたな」

「ね、もう帰ろっか」


 ここから最寄駅までは徒歩10分ほどで、勿論その道に屋根などついていない。しかし、小走りに近い早歩きを始めた私たちを嘲笑うかのように、雨は突如として降り出した。夏の雨のような勢いはないが、それでも降り注ぐ雨が白い線のように見える程の雨量だ。


「やっべ、雨、急に降るじゃん」

「あは、やばい、びしょ濡れ」

「……風邪引きそうだな」


 頭から足までぐっしょりと濡れた私を見て、御影は「どうすっかなー」とぺしゃんこになった髪を掻き上げた。こんなずぶ濡れじゃ、タクシーの運転手は乗せるのを嫌がるだろうし、電車に乗るのも恥ずかしい。


「俺んち来るか?こっから近いし」


 御影は少し悩んだ後、ハッキリと口にした。下心など微塵も感じない、好意100%の誘い文句だ。


「……いいの?」

「俺は、全然。塚原さえ良ければ」


 断る選択肢は初めから持っていなかった。だって雨に濡れてこんなにびしょびしょ。このままじゃ風邪を引いてしまう。明日はパートがあるのだ。休むわけにはいかない。だから、これは、仕方ない。




 足元で水が跳ねる。あれから更に強くなった雨脚は私たちの視界を悪くする。御影が「こっち」と言いながら手を伸ばした。少しの躊躇いは体裁のため。その手を取ってしまえば、なんてことはない、ただの男と女であった。


「ここで待ってて。とりあえずタオル取ってくるから」


 一人暮らしのワンルーム。玄関に立った私の体からぽたりぽたりと雫が落ちていく。家の鍵につけられたマスコットが揺れる。そのマスコットを見て笑いそうになったのは内緒だ。

 御影は靴下を脱いで部屋に上がり、入ってすぐ右手にあるお風呂場へ向かった。


「ほい。このまますぐにシャワー浴びろよ」

「え、いいいい!御影から浴びなよ」

「俺は風邪引かないから」

「……馬鹿だから?」


 手渡されたタオルで髪を拭きながら思ったことが口から飛び出す。御影は「そーだよ」とサラリとそれを受け流した。おかしい。私の知ってる御影なら「馬鹿って言う方が馬鹿ですー」とでも言ってきそうなものなのに。


「やだ、馬鹿でも風邪引くよ?」

「あー!もー!この時間が無駄だわ!とっとと入れ」


 御影はやきもきした気持ちをあてつけるみたいに、ガシガシと乱暴に髪を掻き上げた。


「じゃあ、一緒に入る?」


 とりあえず私も靴と靴下を脱いで廊下に足を下ろした。フローリングと濡れた肌がぺったりとくっついて不快感に襲われる。あー、落ち着いたら寒くなってきた。ほんと早くお風呂入んなきゃ、私も御影も間違いなく風邪を引いてしまう。


「は?なんて?」

「うそうそ、冗談だよ?」

「お前、ほんと、お前……変わってねーな」

「えー?それ喜んでいーの?」


 じゃあ、お言葉に甘えて先に入るね、と私は服を着たままお風呂場に入った。びしょ濡れの服を脱衣所で上手に脱げる自信がなかったのだ。それと、もう一つ。こっちが本命の理由だ。


「は?」

「服脱がなかったら平気じゃん?とりあえずあったかいシャワー浴びよ?」


 私は御影の手を引いて彼をお風呂場へ引っ張り入れた。目が点になった御影が私の言葉を聞いた瞬間、思わず「ぶはっ」と吹き出した。


「お前、マジでそういうとこだぞ」

「ん?一石二鳥じゃん?」

「はぁ……長内苦労してんだろーなぁ」


 御影ってば、私が純粋な好意のみでこんなことをしてると思ってるのかな。そうなら御影の彼女になる子こそ苦労しそうだ。

 ねぇ、御影。私にあるのは純粋な下心だよ。だけど安心して。さらに一歩踏み込む勇気はないから。友達だと言い張れるギリギリのライン。私は高校生の頃からそれをずっと見極めていた。

 それに今の私は既婚者だ。一線は越えない。不倫は醜く愚かだ。そんな罪は犯さない。だからこそ、高校生の頃より慎重に、許されるギリギリのラインを見極めなければいけない。

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