ーー幕間ーー


「ふぅっ、ひぃ……ふぅっ……ぁあ!」


 男は――ウー・サンクスは、転がる鞠のように逃げ惑っていた。

 頭や背中、肩など、あちこちに擦り傷があるのは、散々石を投げられたからだ。

 肥え太った体は重く、傷は痛み、そのせいでか足取りもまた重い。

 しかし、それでも走る足を止めるわけにはいかなかった。


「ぐるァァア!!」


 サンクスの後を追い立てるいくつもの気配。

 獰猛な牙を剥き出しにして、涎を滴らせながら、唸り声をあげて男を追う者たち。

 魔物だ。

 鋭い爪と牙、硬い鱗に守られた四つ足のケモノ。針のような先端を持つ尾は毒を持ち、捉えた獲物に麻痺毒を打ち込み、生きたまま貪ると言われている。

 捕まれば命の保証はあるはずもなく、気の触れるような恐怖の中で食われるしかない。

 着の身着のままに放り出されたサンクスに、それを撃退する術などももちろんあろうはずもなかった。


 強固な砦に守られた街。

 そこから一歩外に出れば、恐ろしく獰猛な魔物が蔓延る。

 魔王の君臨により、そうなった。

 街道も荒れ、整備もろくになされぬまま放置され、所によっては道も途切れて荒れ野と変わらないという具合だ。

 

 息は上がり、重い体をそれでも引きずり、それでもなお死にたくない一心でサンクスは走る。


「助けて……助けて……! 神さま……!」


 サンクスは泣きながら、祈りながら、逃げ惑った。

 肥え太った体は獣道に入り込み、木の根に躓いてゴロンゴロンと転がっていく。


「ひぎゃっ……!」

「うるるぉおおん!」


 倒れ込んだサンクスに、魔物の群れが一斉に飛び掛かっていく。


「ひ、ひぃ……!」


 ギラつく赤い眼に睨まれ、振り上げられた尾の先の針がサンクスのぶよぶよと揺れる腹に埋め込まれる。

 サンクスは、次第に痺れていく手足に、動かぬ口に、舌に、瞬きすらできない目に恐怖した。

 心のうちで何度となく助けてくれと祈っていた。


 果たして――。


 その見開かれたサンクスの眼に、黒い影が映り込む。

 サンクスは。


「は、ひゃふへ……!」


 痺れる手を伸ばし、願った。

 それに応える黒尽くめの、ゾッとするほどに整った顔立ちの麗人だった。

 長く艶やかな銀の髪に、血のような深紅の瞳。

 細い柳眉を憂いげに寄せて。

 ゆるゆる、と大儀そうに首を振る。


「愚かなことですね……。助けてくれと言っているのですか?……あぁ、つまらぬこと。もう、お前には飽きました」


 声音は静か。穏やかですらあり、それでいて酷薄そのもの。


「ふ、ふひお……!? ぁ……ぎ……ひィ!」


 魔物たちは、黒尽くめの麗人を前にし驚くほど行儀良くしていた。

 しかし、麗人が首を振ると、待ての時間は終わりだとばかりに一斉にサンクスに取り付き、よく肥えたその身をご馳走かのように食らい付いていく。

 サンクスは、瞼すら思い通りに動かせない体で、己が醜悪で恐ろしい魔物に貪られる様を瞳に映す。

 サンクスはなおも必死に、何度も、繰り返し、言葉にならない言葉を懸命に黒尽くめの麗人に向けて絞り出しながら。


 その罪を贖うことになった。




 麗人の紫色の唇から、ほう、と、冷ややかな吐息が漏れる。


「……あぁ、可哀想なラーナ。お前の無念、我にもとくと届きましたよ。……ふふ。それにしても、宝剣ルクスフルーグ。そして神に選ばれた勇者、とは。……我が千年の退屈も、少しは晴らせましょうかな。魔王殿には悪いが、勇者……我が美味しく喰らうてしまいましょうかねぇ」


 魔物に喰らわれていくサンクスを、もはや一顧だにもせず。

 黒尽くめの、男とも女ともつかぬ麗人は、青白い細面をさも愉しげに歪め笑った。

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