第3話 汗と唇

プルルルル…


カタカタ…カタカタ…


プルルルル…プルルルル…


「はい、朝日編集部……」


騒がしい事務所。

お堅いような音と人の話し声。

気が遠くなりそうな真っ白い光に当てられて、覚めない頭がさらにおかしくなりそうだ。

そんなところを周囲に悟られないよう、振る舞うことがサラリーマンの仕事なんだろう。

俺もその1人だった。

手元には進まない仕事が暇そうに俺を見つめてきた。

朝はやる気があったんだ、それがどうにも連日続く暑さと日差しのせいで一向に進まない。

そんな言い訳を自身にしながら、動かない手元を見ている。

クーラーがゴォーと音を立てる。

忙しい、やることはある、こうしてる暇は正直ない。

でも仕方ない、手が動かないんだから。


「佐久間!」

そんな言い訳の思考の中に、活発な女性の声が響いてきた。

遠くで俺を呼ぶ、活発そうな女性。

ショートの茶髪、太陽を浴びたように煌めいていた。

キリッとした化粧をして、いかにもデキる女って感じだ。

手を振って俺を呼んでいる。同期の鈴木光莉だ。

「どーした!」

遠いから声を張り上げる。

「一緒に資料室来てくれない?探し物ー!!」

またかよ・・・。

鈴木は入社してからの同期で、社内での初めての仲間だった。

入社式から気さくに俺に話しかけ、課こそ違うが俺と共に編集部へ着任してきた。

俺と違って仕事に意欲的で、あっという間に他の同期を追い抜き、課長にまでのぼり詰めてしまった。

次の部長候補とも言われている。

そんな鈴木だが、俺によく雑用を頼んでくる。

良い噂も聞く反面、それを妬む噂も聞く。

生意気だとか色んな評価があちこちから聞こえてくるから恐らく話しやすいのは俺だけなのかもしれない。

そんな奴らにも怯まずに、仕事できっちり黙らせる鈴木を俺も気に入っているのだが・・・。

「OK、今行く。」

重い腰を上げて、鈴木を追いかける。

ちょうどよかった、いい気分転換の運動だ。


〜資料室〜


あたりは薄暗く、紙とインクの湿ったにおいが鼻をつく。

「で?今日は何をお探しで?」

ちょっとからかうように話しかける。

「10年前の資料なんだけどね。その頃の資料室の惨劇覚えてるでしょ?」

少し呆れたように鈴木が説明を始める。

「あのぐっちゃぐちゃ時代ね」

「そう、あの頃は打てば響くでいい時代だったけど、資料はそっちのけで。今でこそしっかり管理・保管が会社で義務付けられたけど、その前までは酷い有様だったじゃない?そのころの資料が入り用なんだけど・・・見ての通りその頃のものはこの有様よ。」

見ると、一角だけ古い紙束やファイルが山積みになっていた。

なるほど。俺を呼んだ意味はそれか。

「見つからないんだな。」

「仕方ないじゃない。」

鈴木が少しむくれて察せとばかりに見てくる。

「しょうがないな、課長様のお頼みならば。」

俺も少しにやけてみせた。

それからワイシャツの袖のボタンを外してまくる。

「あっ」

鈴木が何か話したそうに俺の腕を見ている。

「ん?なんかあったか?」

鈴木が慌てて顔を背ける。

「なんでもない!さぁどこにいるのかしら。見つけてやるわよ。」

鈴木も腕まくりしてみせる。よく見えないが、少し顔が赤いか?

変なやつだ。


数時間後〜


一向に見つからない・・・。

舐めてた。10年前の資料群がこんなにバラバラに保管されているとは。

クソっ管理部は何してたんだよ。

作業しているせいか体から汗が滲んできた。

空調が効いているとはいえ、事務所よりは確実に涼しくはない。

少し奥の方では鈴木が作業していた。

表情からして、まだ見つからないんだろう。

視線に気づいた鈴木が首とファイルを左右に振ってくる。

俺も肩をすくめた。

「一旦休憩しよう。」

鈴木に提案すると「いいわね」と乗ってくれた。

正直助かった。彼女はストイックな面があるが、自身に対して発動するものらしい。

2人で踏み台に腰を落とす。

「参ったわね・・・。まさかこれほどまでに片付いていなかったとは・・・。」

鈴木が疲れた表情を浮かべる。

「仕方ないさ、管理体制の甘さだな。」

手についた微量の埃を払う。

「正直助かったわ。私1人じゃ諦めてたかも。」

髪を耳にかけながら彼女は話す。

その仕草に女性らしさを感じ、不覚にも鼓動が高鳴った。

「なに?」

鈴木が少し傾げる。

「別に・・・」

見過ぎたかと俺は顔を背けてから横目で彼女を見る。

普段気にかけなかったが、鈴木はそこそこ美人だ。

肌はきめ細やかで、鼻筋はしっかりしているし、茶髪にしては髪は艶やかだ。

顔立ちがとても綺麗だし、何より笑顔がいい。

眩しいくらいの笑顔で、同い年とは思えぬほど若々しい。

「しっかし・・・暑いな・・・。」

「そぉね」

暑さのせいか、肌も少し高揚しているようだ。

首筋をつたう汗が鎖骨を撫でて、谷間に吸い込まれていく。

「ねぇ佐久間って今恋人はいるの?」

「え!?」

いきなりの言葉に驚いたこともあるが、自分が谷間を横目に見ていたことで不意を突かれた。

「いや、いきなりなんだよ!」

「だって佐久間ってモテそうじゃない?いかにも素敵な旦那様になりますよーって感じ。」

少しニヤニヤしながら見てくる。

「からかうなよ・・・。そういうお前の方が引く手数多だろうに。」

湿った前髪がうっとしくてかきあげる。

「そんなことないわよ」

「そうなのか?そうは見えないけどな。」

「そうよ。」

膝に肘をついて寂しそうに言う。

「やっぱり、私って可愛くないんでしょうね。女が生意気だって思われてるのかも。お前は1人でも大丈夫だろって。」

俺は改めて鈴木に向きなおる。

「誰かにそう言われたのか?」

いつもの鈴木らしくない話題に、俺は心配になった。

「誰とかじゃないけど・・・。とにかく!みんな言ってるのよ!そのせいか・・・時々、虚しくというか・・・。」

拗ねたような子供みたいな表情が少し愛らしい。

「寂しいのか。」

「え?」

「少しわかるよ。俺もたまにそういう時ある。」

鈴木が俺を見てくる。

「でもさ、鈴木はすごいよ。同期の中で一番努力してる。昔から、誰よりも必死で仕事に向き合ってきたところを俺は見てきたし、女だとかそんなこと関係ない。俺は鈴木を尊敬してるし、そういうところ素敵だと思うよ。」

我ながらちょっと照れくさいが、本心ではある。

「佐久間・・・ありがとう。」

鈴木がにっこり笑ってくれた。

その素敵な笑顔に、胸が高鳴る。

恥ずかしさで目を背け立ち上がる。

「ま、まぁ?お前は自分が思ってるより、俺は可愛いと思うぞ!結構美人な方だし!」

ってなに言ってるんだ?俺は!

「ほんと?」

鈴木が立ち上がり、上目遣いで瞳を潤ませながら見てきた。

「え?あぁそりゃ・・・。」

と言いかけて、その一瞬に見た。鈴木の足元に一枚の紙があって鈴木はそれをヒールで踏み抜いている。

危ないと思う頃には遅かった。鈴木が紙で滑った。

「え?きゃっっ!!」

鈴木は体制を崩して、俺に向かって倒れてきた。

「うわっ!!」

俺は体制を崩しながらも、鈴木に怪我をさせないように踏ん張った。しかし気がつかなかった。俺の足元にも大量の紙が四散していたことに。

踏ん張ったつもりが滑って、尻餅をつき片手をついた。もう片方の手は、鈴木を抱えてなんとか難は逃れているようだった。

「鈴木、大丈夫か?」

そこで俺は呆気に取られてしまう。

見上げるとそこには・・・。

ワイシャツの間から、紫色のレースに包まれた渓谷が俺を見つめ返す。

たわわに実った巨峰はちょうど、俺のベルトの下付近に押し当てられかけている。

急速に血流が集中するのを感じた。

「佐久間・・・。」

不意に色っぽい言葉で呼ばれて我にかえる。

「鈴木・・・怪我とか・・・。」

あれが膨らむのを感じる。

クソっ!今はやめてくれ!

「ごめん佐久間・・・。」

鈴木の足を覆う、浅黒いタイツが俺を撫でる。

柔らかい。なんでこんなに柔らかいんだ。

「鈴木っ!待って怪我とか!」

俺は必死に意識を逸らそうとするが、鈴木がそれを許してくれない。

俺に鈴木のがあたる。

「佐久間・・・。」

唇が迫ってくる。高揚したせいか鈴木の汗がつたって俺に流れ込んでくる。

普段のキリッとした表情と違う鈴木に唾を飲み込むことしかできない。

唇を合わせたら最後まで・・・と感じた。

しかし、俺も拒絶することを忘れてしまっているようだった。

もうすぐで触れてしまう。

そんな時にふと目に留まった崩れた資料の中に、探していた10年前の資料の文字片が見えた。

その一瞬で我にかえり、資料を鷲掴む。

「鈴木!あった・・・。」

呼吸が荒くなりながら、鈴木の前に資料を渡す。

「あ・・・うん。」

鈴木も呆気に取られながら、資料を受け取った。

「よかったな!じゃ俺もう上がりだから!今度またなんかあったら呼んでくれ!」

そう言って俺は鈴木を起こして座らせ、足早に資料室をツカツカと歩いて出た。

鈴木が小さく、何か言ったが聞こえないふりをした。


知ってる。

わかってるよ。

俺が一番思ってるよ。

この・・・


『いくじなし・・・。』

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