4-⑦

「もともとアレは先代の眷属だからな。おれの眷属にはならんよ。アレはそう望んで、お前のそばに向かったんだ」

「そうなんですね……」


 山犬との思い出がよみがえり、山桃の木を見つめてしまう。それにならうように、彼女も木を見つめた。


「アレはもう、死んだのか」

「はい。息子が十になったときに。今はあの山桃の下で眠っています」

「……そうか」


 そこを見つめる鬼の金眼が僅かに揺れた気がした。彼女もあの夏の日を思い出しているのだろうか。そうだったらいい。私は鬼の胸にそっとすり寄った。私が寂しいとき、あの山犬がそうしてくれていたように。


 鬼は私の髪をそっと撫でると、眉を下げて角を撫でる。


「おれも、眷属を持ちたいと思っている」

「……はあ」

「一人であの社にいるのは、思いの外退屈だった。――賑やかだった頃があったせいなのだろうな。きっと、先代もそうだったのだろう」


 上に向かってはねたまつ毛がわずかに震えた。そっと目を伏せて、彼女はひとつため息を吐く。


「村を襲った日照りは、正しく先代の祟りだった。信仰を忘れた村人を憎み、祟りを起こしたと彼は言っていた。だが、ここで過ごすお前の姿に心をうたれたそうだ。お前の帰る村を救うため、おれに代替わりを持ち掛けた、と」

「そうだったのですね……」

「確かに、あの社に一人は堪える。お前との思い出を想えばなおさらだった。なあ、澄子」


 ちらりと鬼がこちらを伺うように見た。


「お前、おれの眷属にならないか?」


 刹那、冬の風が庭の草木を揺らした。山桃のそばで、冬椿がひとつ落ちる。


 すでに動いていないはずの心臓がまた止まるような心地だった。


「けんぞく……?」

「うん。眷属になれば、輪廻の道から外れ、永劫の時をおれと過ごすことになる。あの社で」

「それは、つまり」


 期待をあらわに金眼を見つめ返すと、それは一瞬だけ細まってそっぽを向いてしまう。鬼は何度か頭をかき、最期に角をぴんと弾いてから再びこちらを見る。


「おれの傍にいてくれ、澄子」


 ざんばら髪の隙間から覗く首筋や耳は真っ赤だった。つられて、自分の顔も赤くなるのがわかった。


 この日を、どれほど待ちわびただろうか。


「……植物に詳しい友人が、山桃の花言葉を教えてくれたんです」

「は? 花言葉? 何の話だ」

「はい、花言葉です。ナキ様は、ご存じですか?」


 きょと、と鬼が首を傾げる。幼いしぐさが懐かしい。私はくすくすと笑った。


 手を伸ばしてその頬を引き寄せる。間近にやってきた金眼。ああ、やはり、この鬼の瞳は何よりも美しい。


「一途、というのですって」


 言いながら、私は彼女の頬にそっと自分の頬を擦りつけた。柔らかな感触と懐かしい匂い。家族には申し訳ないけれど、私の中の『女』は、これまでに得たことのないくらいの喜びを感じていた。


「どうか連れていって、ナキ様。山を下りてからも、あなただけをずっと恋い慕っておりました。今度こそ私を、あなたのものにしてください。あなたの愛を、私にください」


 指先が震える。心の中の感情が今にも涙になってあふれ出しそうだ。


「私の愛を、受け入れて……」


 とうとう訴える声に嗚咽が混じった。堪えられなかった涙をぼろぼろと零しながら、私は縋るように鬼の背に腕を回した。


 ずっと、ずっとあなただけを求めていた。あなたを愛したくてたまらなかった。私の唯一はずっと、このうつくしい鬼だった。


「もう、手放してやらんからな」


 呻るように鬼が言う。それでいい。それでいいから。私はこくこく頷いて鬼を抱きしめる。


「ああ……澄子。うつくしい、おれだけの澄子。この時を、どれほど待ちわびていたか」


 耳元で囁かれる声の低さに背筋が甘く痺れる。私をかき抱く両腕から、徐々に力の加減がなくなっていくのがわかった。それでも痛みを感じないのは、私がこの世の理から外れた者だから。鬼もこの時を待っていたのだと理解して、私はまたたまらない気持ちになる。


「愛している、澄子」


 見つめる金眼。穏やかな色に、わずかな独占欲を滲ませるそれがひどく愛しい。


 そっと、鬼の唇が私の唇に重なった。鬼の匂いが鼻先をくすぐる。


 触れ合うところから、何か温かなものが体へ入り込んでくる気配がした。決して不快ではないけれど、確かな違和感が体にしみ込んでくる、不思議な心地。身じろぐと、鬼の手が私の顎をぐっと掴んだ。薄く目を開けば、爛々と輝く金色が私をじっと見つめている。逃げるなと言うかのようなその視線に、私はぞくぞくと背中を震わせた。逃げるわけがないのに。


 うつくしいあなた。あなたと共にあれるのならば、私は人であることをやめても構わない。その覚悟はずっと昔、あなたと過ごした夏のうちにできているのだから。


 私は鬼に抱き着く腕に力をこめる。きっと、もう手放せないのは、私の方だ。


「おれの気を流し込んだ。これで、お前はもうおれのものだ」


 満足そうに笑う鬼に私も微笑み返す。


「うれしいです、ナキ様」


 離れていく彼女の唇に、私はもう一度自ら口づけた。



 ――名嘉山なきやまには、ひと柱の鬼神がいる。彼女は人の営みを好み、山の社でそれらを見守っている。春に畑を耕し、夏に種をまき、秋に実をつけ、冬を耐える。そんな人々を、彼女は静かに愛しんでいる。


 冬を耐えてこそ種は芽吹くと、彼女は知っている。愛を与えられてこそ花は開くと、彼女は知っている。そして、それは人も神も同じだと、彼女は知っている。


 私は、そんなあなたを見守りたい。そばにそっと寄り添い、愛を囁くものとして。


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R4.4.13 完結です。今までご覧いただいた皆さま、本当にありがとうございました。

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