4-⑥

 一度閉じた目を、懐かしい匂いにまた開ける。すんと鼻を鳴らすと、冬の匂いに混じって、あの鬼の匂いがした。


 ああ、迎えに来たのだ。愛しい、恋しい、あの鬼が。


 私はゆっくりと天井へ腕を伸ばした。すっかり枯れ枝のようになってしまった自分の手が目に入って苦笑する。姿の変わってしまった私を、彼女は間違わずに見つけてくれるのだろうか。年を取るたび、幾度もそんな不安に苛まれてきた。それも今日で終わる。


 そして約束どおり、あの鬼は私を迎えに来てくれた。


「老いたな、澄子」


 凛と響く声に涙が出た。変わらない声に安堵する。


 鬼の姿を探して視線を巡らす。涙ながらにこちらを見る家族。夫によく似た息子。いつも参拝に付き添ってくれる孫娘は、若い頃の私によく似ている。彼女がこの子と私を間違うのではないかと、怯えた日もあった。


 孫娘の手が私の老いた手を握った。白魚のような手。美しい少女の手。その上に、さらに輝くような白磁の指が重なる。異形の爪が赤く彩る白い指先。


 もう声を出すこともできなかった。それでも、私は吐息で鬼の名を呼ぶ。私が勝手につけたものだけれど、彼女はしっかりと受け入れてくれていた名前。


「そうだよ、お前の鬼だ」

「――えっ」


 ふわりと体が持ち上がる感覚に、私は思わず短く叫んだ。耳朶に届いた自分の声は思いの外若い。どういうことだろう。瞬きをすると、目の前にざんばら髪が扇のように広がった。その隙間に美しい黄金色の瞳を見つけて、私は「ああ」とため息を漏らす。


 目の前で微笑む花のかんばせ。鬼だ。私の愛しい鬼だ。脳裏に山で過ごした夏の日が蘇る。鬼はあの頃と何も変わっていなかった。美しい姿のまま、何一つ変わらない彼女が私を抱き上げてくれていた。


「ナキ様……お会いしたかった……」


 言いながら、私はその頬に手を伸ばす。目に映った手は肌理細かい少女の手で、見覚えのないそれに思わず手を引っ込めた。


「どうした? 触れないのか」


 鬼は面白そうに私を見下ろしている。


 自分の手と鬼の顔を交互に見て、私はため息のように「うそ」と呟いた。しわだらけで黒ずんでいた私の手は、白く美しい少女の手になっていた。


 戻っているのだろうか。あの夏の日に、私の体は若返っているのだろうか。信じられない重いで私は結っていた髪を解く。肌とは正反対に白くなっていた髪は、黒々と艶めいていた。


「ここは落ち着かん。外へ行くぞ」


 呆然としている私を抱きかかえたまま、鬼はぺたぺたと縁側へ出て行く。


 慌てて振り返ると、そこには先ほどまでと同様、家族が私の体を囲んでいた。寝床に横たわったままの私は、老女の姿で息絶えている。私は改めて自分のてのひらを見つめた。いつも感じていた体の痛みや重怠さはもう感じない。そうか、私は死んだのか。すとんと胸に落ちた結論はあまりにもあっけなく、私は思わず笑ってしまった。


「何を笑っている。おかしな女だな」

「ふふ。いえ、なんだか、気が抜けてしまって」

「そんなものか」


 片眉を上げながら鬼が角を撫でる。縁側から庭へ出ると、そのままひょいと屋根の上に飛び映る。腰を下ろして、私たちは二人で庭を見下ろした。


 冬の風が鬼のざんばら髪を揺らす。まだ雪は降っていないけれど、身を切るほどの冷たさを孕む風。それなのに寒さを感じないのは、私がこの世のものではないからなのだろう。


「約束を果たしに来たぞ、澄子」


 鬼が庭を見下ろしたまま金眼を細めた。私を抱きしめる腕に力がこもる。


「偽りなく答えろよ。おれは嘘が嫌いだ」


 きろりと動く金色が懐かしい。うっとりするように彼女を見上げる私に、低い声が問いかける。


「人の営みとは美しいものだったか?」


 ――ああ、きっと、私はこの瞬間のために生きていたのだ。


 ひと呼吸の刹那、瞼の裏にこれまでの人生が過ぎていく。幾度となく巡ってくる冬を、この町で、この家で何度も超えてきた。冷たい風に晒されたこともあった。その度に、家族や友人が助けてくれた。冬を超えた後は必ず春が来ることを知ったのは、いつだっただろうか。雪解けの地面の下、懸命に芽吹こうとするものに救われているのだと気づいたのは、いつだっただろうか。冬が来るからこそ、春が来るのだと、私は人の営みの中で学ぶことができた。


 じっとこちらを見つめたまま鬼は動かない。私は彼女の言葉を噛みしめるように微笑んだ。


「はい、ナキ様。人の営みは、うつくしいものでした」


 金眼が見開かれる。しかしそれはすぐに、甘く細められた。


「そうか。……やはり、おれはお前が愛しいよ」

「私もです。今でも、あなたが恋しくて、愛しくてたまらないのです。ほら、あちらをご覧になってください」


 庭の中央、縁側からよく見える場所に植えた山桃の木を指差す。今は葉を落として枝だけになっているけれど、春になれば花をつけ、夏の初め頃にはかわいらしい実をつける。そういえば、夫はあの実で作った酒をよく好んでいた。何度か神社に供えたこともある。


「あの木は山桃です。あの夏、あなたと食べた味が忘れらなくて、庭に植えたんですよ」


 言いながら、私はそっと鬼の頬に触れた。彼女はそれを受け入れながら「ははあ」と笑う。


「おれを想ってのことか。かわいい女め」


 額に落とされる口づけに頬を緩める。夢にまでみた触れ合いだった。


「お前、あれで酒をつくっただろう。うまかった」


 ふと、囁くように鬼が言った。私は目を瞬かせる。


「はい。作りましたけど……ご存知でしたの?」

「供えたのはお前じゃないか。……ああ、そうか。お前の中では、おれはまだただの鬼だったか」


 確かに、庭の山桃を使った果実酒を何度か神社に供えたことはある。酒を好む鬼に届けばいいと思ったけれど、所詮神社に供えたものは神の供物だ。はなから諦めていたことだった。


 しかし、どういうわけか彼女はそれを知っている。話が見えなかった。首を傾げると、鬼はからからと楽しそうに笑った。


「あの後、山の神と代替わりをしてな。晴れておれは山神になったのよ。お前が村人たちにおれのことをふれ回ったのも良かった。村人たちの信仰は正しくおれという鬼神の元へ巡っているぞ。神社の供え物もしっかりおれの元へ届いている」


 得意げに角を撫でる彼女を、私は呆然と見つめた。山の神の代替わり。鬼神。つまり、今までこの村や町を見守ってきたのはこの鬼だったということか。そう思うと、なんだかたまらない気持ちになる。


「では、モモが山から下りてきたのは、ナキ様の遣いとしてなのですか?」

「いや、違う。それはあの山犬の意志だ」


 きっぱりと断じた彼女に、私はただ頷いた。

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