閑話⑥

 ──名嘉山なきやまには、鬼がいる。


 それは赤子の頃から、祖母に何度も聞かされた昔話。小さな村に伝わるなんてことない伝承。


 その昔、名嘉山の麓の村を長期間にわたる日照りが襲った。村人たちは山の神の祟りだと畏れ、ひとりの娘を生贄として山に捧げる。すると数日後、山から一匹の鬼が下りてきて井戸を掘り人々を救ったという。その後、鬼は生贄の娘を村へ返し、娘は山神の不在と鬼の行いを村人たちに伝えた。村人たちは鬼を『ナキ』と呼んで親しみ、名嘉山の神として祀ることにしたという話だ。


 伝承の中で、ナキは穏やかな気性だと語られる。人を愛し、慈しみ、山中にある社から今でも村を見守っているらしい。名嘉山の麓の村に鬼神信仰があるのはそのためだ。今でも、村人たちは毎年一番出来の良い作物へ供えては村の安寧を祈願している。


 私の祖母は麓の村の出身だった。作物を町に売りに来ているとき、商家の一人息子だった祖父に見初められこの家に嫁入りしてきたのだ。祖母の信仰心は篤く、この町に住むようになっても月に一度は村の神社に参拝していた。


 その日も、私は祖母と共に村の神社を訪れていた。


 神社に着くと、私はいつものように持ってきた酒を祖母へ渡す。祖母は私から酒を受け取ると、境内にそれをそっと供え、慣れたように手を合わせて目を閉じる。さわさわと近くを流れる小川の水音を聞きながら、私は祖母が鬼神を拝む姿をじっと見つめていた。頬を撫でる風が冷たい。もうすぐ冬が来る。


 どれくらいそうしていただろうか。祖母は年々、拝む時間が長くなっているような気がする。その代わり、社に参拝すること自体が少なくなった。しわくちゃの横顔を見ながら、私は体力が持たないのだと悲しそうに眉を下げる祖母を思いだす。今日はいつもよりずっと長い気がした。


 ようやく顔を上げた祖母は、社に向かってにっこりと笑う。


「もう、ここに来るのはこれで最後になるでしょう」


 虚空に向かって投げられた言葉。私は横顔を凝視しながらそれを聞いていた。なんとなく、そうなのだろうとは思っていた。今日持ってきた酒は、祖母が数年ぶりに手作りした果実酒だったから。けれど、祖母本人の口からそれを聞くのは、やっぱり嫌な気持ちになる。しかも、その言葉は家族である私に向けられたものではない。この神社に祀られている、鬼神に向かって投げられたのだ。


「本当は、お山の社まで行きたいのですけれど」


 祖母の目がくしゃりと細められる。お山の社というのは、この神社の更に奥、山の中へ続く参道を登った先にあるお社のことを言っているのだろう。弱り切った祖母の足腰では、とうてい叶わないことだ。


 半年前、祖父が亡くなった。それから、祖母も後を追うように病を患った。まるで、祖父を見送ったことで、自分の役目を果たしたと言うかのように。


 本当は、今日だって家で安静にしていなければならないのだ。それでも、祖母は「これだけは行かせてほしい」と言って、弱った足腰を奮い立たせてここまで来た。初めは心配して制止していた家族だったが、祖母の必死な形相に何かを感じた息子──私の父は、仕方なしにそれを見送った。いつも参拝には私が付き添っていたから、私は今日も祖母を支えるようにしてここまでやってきた。


 ざわりと木々が騒めく。冷たい風が枯れ葉を巻き上げて、かさかさと音をたてた。


「ナキ……さま……?」


 ふと、祖母がぽつりと呟いた。同時に、嗅いだことのないような匂いを感じる。甘い香と、獣の匂いが混ざったような、けれど不快ではない匂いだった。


 よろよろとたたらを踏む祖母。そのおぼつかない足元に、私は慌てて祖母の手を握った。


「おばあちゃん、どうしたの? 大丈夫?」


 呼びかけても、祖母は虚空を見つめて目を見開いたまま。


「ああ……ああ……!」

「おばあちゃん!?」


 ついにぼろぼろと涙を零し始めたのに、私は頭を抱えたくなった。死を前にして、祖母はいよいよ狂ってしまったのではないか。胸のあたりがざわざわとくすぐられるような心地だ。すぐに祖母の手を離して、家に帰ってしまいたい。父と母を呼びに帰りたい。でも、今この手を離したら、祖母はそのまま死んでしまうのではないかと思った。それも嫌だった。


 どうしよう。泣きそうになったところで、祖母が私の手を強く握り返す。


「……ごめんね。帰ろうか」


 落ち着いた祖母の声にはっとする。祖母はこちらを向いていて、穏やかに微笑んでいた。私はそれにただ頷くことしかできなかった。


 その年の冬の日、祖母は家族に見送られながら静かに息を引き取った。


 祖母は亡くなる前、私に自身の過去を語って聞かせてくれた。冬の初め頃だったと思う。その頃の祖母はもう立つこともままならなくなっていたけれど、その日だけは体調が良くて、縁側で庭の山桃の木を眺めていた。


 枯れ枝のような指先が山桃の木の根元を指差す。確か、あそこには昔家で飼っていた犬が埋まっているのだと父が言っていた。


「あそこに埋まっている山犬はね、モモというのよ」


 淡々とした口調で祖母は語る。若い頃、村を日照りが襲ったこと。山神の生贄として、社に行ったこと。そこで、美しい鬼と出会ったこと。


 つまり、伝承で語られる生贄の娘とは、祖母のことだったのだ。私は信じられない気持ちでその横顔を凝視する。


「ナキ様と約束したのよ」


 それでも、過去を語る祖母の表情は、とても優しくて、慈しむようで。


「人ととして、生を全うすると」


 まるで、恋する少女のようだった。


「人の営みを生き抜いて、そうしたら、ナキ様が迎えに来てくれるのよ」


 夢見る少女のような瞳を、祖母はしていた。


 だから私は祖母が他界した後も、村の神社に通っている。


 酒と、作物と、庭の木から採れた山桃を持って。天気の良い日は、山中の社まで行くようにしていた。簡単な掃除をして、供物を置いて手を合わせるだけだから、一緒に連れて行く娘と息子はしょっちゅう退屈だとむくれていた。


 それでも、私は参拝をやめない。伝承を語ることをやめない。


 そこに、美しい鬼神と少女がいることを信じているから。

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