閑話⑤

 頬を撫でる冷たい感触に、鬼はゆっくりと目を開けた。


「ひどいことをするものだねえ、山神ってのは」


 髪をかき乱してくるものを振り払おうと手を伸ばすと、今度はその手がひやりとしたものに取られてしまう。


「ああ、やっと起きた。気分はどうだい、鬼御前」

「……葦姫あしひめか」


 呻くように名前を呼ぶと、狐は満足そうに目を細めた。


 身を起こして、やっと自分が彼女の膝を枕にして寝ていたことに気づく。舌打ちをすると、狐は「もう少しこうしていればいいのに」と機嫌よく笑った。


「山神の代替わりを受けたんだってね。ひどいじゃないか。アタシに相談もないなんて」

「なぜお前にいちいち相談しなければならん。放っておけ」

「子離れが早くて悲しいよ」

「……山犬はどこだ」


 肩をすくめる狐を後目に、鬼は周囲を見回して山犬を探した。暗いが、ここは確かに社の中だ。天井から差し込んでいた光がないから、夜になっているのだろう。雨も止んでいる。ただ、あの獣の姿がない。


 勢いよく立ち上がり、鬼はくらりと回る視界に慌てて座り込む。隣で狐が何か言っているが、よくわからなかった。体が重い。どこか怠いような気もする。


「体の変化が終わってないんだ。しばらくは大人しくしているといい」

「……うるさい」

「あの山犬は外にいるよ。アタシを怖がって近寄らないのさ」


 言いながら、狐がそっと社の扉を開く。扉の傍にはあの山犬が丸まって眠っていた。鬼はつかの間、安堵の息をつく。


「こいつはもうただの獣だよ。まだアレの意識はあるようだけど、表にはもう出てこない」


 当然のように言う狐に、鬼は眉を寄せた。やはり、彼女は最初から少年の姿をしているのが山神だということに気づいていたのだ。こちらに伝えなかったのはきっと、その方が面白そうだというくだらない理由なのだろう。鬼は不機嫌なのを隠さずにまた舌打ちをした。


「わかっている。で、お前は何の用だ」


 用がないのなら来るなと言外に滲ませながら狐を睨む。睨まれた狐は、怯むようすもなく手にした瓢箪を掲げてみせた。飄々と笑っているのが憎たらしい。


「知り合いの狐の婚礼だったのさ。日取りがなかなか決まらなくてねえ。さっさとしちまいなって言ってやったら、今日だったってわけさ。祝い酒をわけてやろうと思ってね。来てみればお前が倒れていたものだから、すっかり忘れていたよ」


 狐の婚礼と聞き、鬼はぴくりと片眉を上げた。ならば、あの天気雨はこの狐の仕業か。高位の狐は、自分よりも下位の狐が婚儀を催す際に祝いの証として雨を降らすのだと、鬼は幼い頃に他ならない彼女自身から聞いていた。


 まるで狙ったかのようなそれだ。鬼はため息をつく。それに気づいたのか、狐はやはりにんまりと目を細めた。


「涙を隠すのには、雨がちょうどよかろうて」


 言いながら、どこからか取り出した杯に酒を注ぐ。つまり、そういうことだ。鬼は受け取った杯を一気に飲み干した。憎たらしいくらいに上等な酒だった。


「……世話をかけたな」


 言った直後、かしゃんと杯の落ちる音がした。見れば、狐がその手から杯を落としたところだった。床の上に広がる酒がもったいない。片目を細めれば、狐は見開いた空色の瞳を慌てて細めていた。


「珍しいじゃないか。お前がアタシにそんなことを言うなんて」

「ちょうど良かっただけだ。あのまま雨が降らなかったら、あの子がここに留まっていれば、おれはきっとあの子を手放せなくなっていた。お前のおかげだと言っていいだろう」


 もう一度酒を飲み、鬼は柔らかく笑った。対照的に、狐はひくりと目の端を引きつらせる。


「……やめておくれよ。そんな顔を見たかったわけじゃない」

「ならばどんな顔がお望みだ? あの子を手放したことを嘆き、後悔し、意気消沈していれば満足か?」


 鬼は狐の空色の瞳を見つめる。そこに浮かぶ僅かな動揺にほくそ笑んだ。


「――あの男を殺した時のように」


 刹那、狐の周囲の空気が騒めいた。見えない尻尾が膨らんだのだろうか。鬼は笑いだしそうになるのを堪える。


「気づいていたのか」


 力なく狐が問いかける。「ああ」と鬼が頷くと、彼女は諦めたようにため息をついた。


「そうなのかもと思い始めたのは、この山に来てしばらく経ったあたりかな。確信したのはたった今だが」


 あの少女の妹が迎えに来るように差し向けて、とどめのように雨を降らしたのは他でもないこの狐だ。彼女がそれを認めたことで、鬼はやっと確信を持つことができた。


 あの男にこの身を縛る呪いを教えたのは、この狐だということに。


 さしずめ、彼が通っていたのは狐の元なのだろう。そういえば、老女の姿を取るよう自分に諭したのも彼女だった。


「おれが人を喰って泣いているときも、お前は愉しそうに笑っていたなあ。他のものの苦しむ姿がそんなに面白いか」


 酒を煽りながら尋ねると、狐は「いいや」と首を振る。


「お前だけさ。アタシがいじめたいのは、苦しむ顔を見たいのは、いつだってお前だけだよ。かわいい鬼御前」

「どうしてそこまでおれに執着する」

「それは、」

「愛しているからか」


 空色の瞳が見開かれる。


 鬼は笑った。杯を満たす酒に映る自分は、思いの外穏やかな顔で笑っていた。


「そうさ。これが、アタシの愛だ」


 狐は杯を拾ってそこに酒を注ぐと、半ば自棄になったように飲み干した。いつもは気取ったしぐさしかしない狐の乱暴な動作に、ついに鬼はけらけらと声を上げて笑う。姉のように、親のように思っていた彼女の心の内を暴くのは楽しかった。


「アタシが好いた相手を愛しいと思うのは、相手がひどく苦しみ、悲しんでいるときだけ。その苦しみをアタシが癒すことに悦んでいるのさ。しかも、だ。アタシは、他でもないこのアタシが与えた苦しみを、自分の手で癒してやりたいのさ」


 牙をむきながら狐は言う。


 鬼は思わず喉を晒して笑い声を上げた。


「なんとも愉快な趣味だな。それでおれとあの男を引き裂いたわけか」

「ああ、あれは最高に愉快だった。あの男は本当によくやってくれた。嘆き、泣くお前は本当にいじらしくて、可愛らしくて、美しかった。愛しいと思った。ああ……お前を慰めるのは、気持ちが良かったよ」

「……気持ち悪い女め」


 くっと笑い声を噛み殺しながら言うと狐は意外にも切なそうな表情を見せる。鬼は小さく首を傾げた。


「そうだよ、鬼御前。愛とは、気持ちの悪いものだ」


 酒を一口含み、狐は喉を上下させる。


「だがね。お前だって、そうだろう? アタシと同じだろう」


 空色の瞳がじとりと鬼の金眼を射抜く。


「自分を守るために、あの人間を人里へと返した。お前は、自分があの男のようになりたくなかったのだろう? 自分に鬼であることを捨てさせたあの男のように、あの人間に人であることを捨てさせたくなかったのだろう?」


 狐の言葉を聞く間、鬼は頬杖をついて空色の瞳を見つめ返していた。彼女は正しく鬼の心を読んでいた。


 すでにあの少女には鬼の精気が僅かだが注がれている。もっと多くの精気を注げば、きっと少女は完全な妖にはなれずとも幽鬼の類になっただろう。それをしなかったのは、その道を選択するのは、あの男と同じだと思ったからだった。


「そうだ。おれは、あの男と同じ欲をあの子に押しつけたくなかった」

「あの人間を愛しているから?」

「……うん」


 ゆっくりと鬼は頷く。


「気持ち悪い」


 狐はそう吐き捨てた。


「それはお前の自己満足さ。結局、お前は愛という名の欲をあの人間に押しつけているんだ。あの人間がこれから歩む道はまさしく地獄だよ。あの人間はこれからずっと、お前の幻想を追って生きていくのさ。死ぬまでずっとね。お前があの子に渡したのは、愛ではなく地獄だ。その生涯をお前を待つことだけに捧げるという生き地獄だ。あの男がお前にそうしたように、アタシがお前にそうしたように」


 今度は狐が声を上げて笑う番だった。社の中に響く禍々しい哄笑は、いつか聞いたあの男の笑い声とよく似ていた。


「アタシが憎いだろう? あの男と同じくらい、いいや、もっと、それ以上にアタシが憎いだろう? きっとあの人間も、いずれはお前を憎むのさ」


 鬼は静かに杯に酒を注ぐ。邪悪な笑い声にあわせて杯の中で酒が揺れている。


「それこそが、愛というものなんだよ、鬼御前」

「そうか」


 酒を煽り、鬼はふうと息をついた。


「まあ、おれはお前を憎んでなどいないがな」

「……は?」


 間の抜けた声と共に哄笑が止まる。


 空になった狐の杯に酒を注ぎながら鬼は続けた。


「誰がどう仕向けたとしても、その道を選択したのは己自身だ。おれに呪いをかけると決めたのは彼だし、村に帰ると決断したのは澄子だ。まあ、結果論ではあるが。それに、」


 杯に浮かぶ自分の金眼を見つめる。


「人を喰うことを選んだのは、おれだ」


 例え狐の指示だったとしても、受け入れてそうしたのは自分自身だ。憎むべきは愚かな己であって、他の誰かではない。


「過去の行いによって、今がある。おれはお前を憎みはしない。澄子がおれをどう思うかは知らんが、それはあの子の心が決めることだ。そしておれは、おれを愛していると言ったあの子の心を信じている」

「……つまらんことを言うじゃないか」

「そう思っているのなら、おれの企みは成功しているわけだな、葦姫。どうせ、お前はおれが憎んでやった方が悦ぶんだろう。それではおれがつまらん」

「かわいくない」


 膨れる狐を静かに笑い、鬼は杯に口づける。狐も同様に酒を含んだ。


「なんだ。本当に、つまらんものだな。お前の泣き顔と泣き言を肴に酒を飲むはずだったのに、こうもさっぱりした顔を見せられるとは思わなんだ」

「ははあ、逆にその気分を聞いてやろうか」

「くふ、ふふふ。まあ、悪いものではないよ。上等な酒の味が落ちるわけでもない」

「それは結構」


 それきり、狐も鬼も黙り込んでしまった。静寂の中、二匹の獣は酒を煽り続ける。


 時折聞こえる虫の鳴き声に、もう夏も終わるのかと鬼は思った。そういえば、あの少女がこの社にやってきたのは夏の始まりだった。少女と過ごした夏は、瞬く間の夢のような、短い夏だった。


「……山の神になった気分は、どうだい」


 ふと、狐が問いかける。


「悪くはないよ。いいわけでもないがな」


 答える鬼の表情は晴れやかなものだった。


「……そう」


 空色の瞳を細めながら狐がくっと笑った。


  ◆


 雨が降ったのは、それから七日程経った後だった。


 しとしと響く音を聞きながら曇天の空を見上げている鬼の足元に、山犬がそっとすり寄る。


「行くのか?」


 雨が降ったということは、完全に先代の山神の権能がなくなったということなのだろう。尋ねれば、彼は一つだけ鳴いて鳥居に向かって行った。


 暗い空の下、一匹の山犬が森の中へ駆けていく。彼はこのまま、あの子の村へ行くのだろう。鬼は静かにそれを見送った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る