4-③

 邪推。彼の言葉を頭の中で反芻する。そのまま隣で歩く横顔を見ると、偶然目が合ってしまった。困ったような顔でへらりと笑っているけれど、その笑みには発言に対する後悔が滲んでいる。心なしか耳も赤い。


 本当によくわからない人。私は眉を下げて彼に微笑み返す。愚直なほどに誠実。それでいて、商人としての狡猾さも併せ持つ彼。まっすぐな愛情で、こずるく私を手に入れようとしてくる。


「お話ししましょうか。少し、長くなりますが」


 ため息のように漏らした言葉は、ほぼ無意識だった。


「いいのか?」


 勢いよく尋ねてくる彼に、私は苦笑しながら頷く。きっと、私は心のどこかで話をしたかったのだろう。吐き出してしまいたかったのだろう。あの鬼のことを。


 足元を見れば、山犬がぱたりと尻尾を振る。示し合わせていたように新緑の瞳がこちらを向いて、元気のいい鳴き声を一度だけ上げた。


 家までの道すがら、私は山での思い出を彼に話して聞かせた。社での山犬や鬼との出会いを話せば、彼はきゅっと切なそうに顔を歪めたし、村の井戸を鬼が掘ったのだと言えば、ひどく驚きながらも「確かに、一日であれだけの穴を掘るのは人外の技だな」と頷いていた。一番面白かったのは、山犬が少年の姿をとったと言ったときの彼の表情だ。私と山犬を何度も交互に見比べて、何度もぱちぱち瞬きしながら「本当か……?」と幼い子どものような顔で言ったものだから、また声を上げて笑ってしまった。


 話は家についても終わらず、私は山犬の手当をしながらも話し続けていた。社での生活の中で、あの鬼の心根がひどく優しいものであると知ったこと。私との交流で、彼女が少しずつ心を開いてくれたこと。そして、私の幸せを願って村に帰れと言ってくれたこと。物語じみた長い話だったけれど、彼はとても良い聞き手になってくれた。


「ですので、私の心に決めた方というのはこの子ではなく、社で出会った鬼のことなのです」

「なるほどなあ。それはなんとも手強そうだ」


 そう言って陽気に笑う彼に、私はこっそりと目を細める。彼は最後まで私の話を否定しなかった。時折感想を挟んだり、質問をしたりということはあったけれど、絶対に「嘘だ」とは言わなかった。そんな彼を、やはり好ましいと思う。


「その鬼は、きっと最初から人が好きだったのだろうな」


 手当を終えて、山犬の体も洗い終えたときのことだった。軒下に座り、私の膝の上で眠る山犬を見ながら、彼はぽつりとそう言った。


「なぜ、そう思うのですか?」


 私はあの鬼の過去を彼に伝えていない。伝えるつもりがなかった。それは言いふらすものではないし、彼女の過去を知る人間は私だけであってほしかったから。


「鬼はあなたを社から蹴って追い出したと言っていただろう? そのときに、あなたを殺そうと思えばそのまま蹴り殺せたはずだ。ほら、人の姿になった山犬に手を引かれたとき、ひどく痛んだと言っていたじゃないか。人外の力とはそういうものなのだろうな」


 山犬を見ていた黒目がこちらに向けられる。


「きっと、最初から殺すつもりなんてなかったんだよ。案外、人との交流を心のどこかで望んでいたのかもしれない」

「人との交流……」


 ──これが人の体温だったな。……すっかり、忘れていた。


 想いを伝えた日、私を抱きしめながら鬼が漏らした言葉を思い出す。置き去りにされた子どものような声で紡がれたひとり言。彼女の過去を知った後に思えば、それは堪らなく寂しい言葉に思えた。


 山の社でひとり過ごす鬼を想う。彼女は独りの寂しさを知っていながら、私のためにその寂しさをまた受け入れたのだろうか。


「澄子さん」


 彼に呼びかけられて我に返る。いつの間にか俯いていた顔を上げた拍子に、頬から雫が伝い落ちていった。涙だ。私は気づかぬうちに泣いていた。


 隣に座る彼を見れば、太めの眉を情けなく下げてこちらを見つめている。中途半端に上がった両手が、行き場をなくしたまま固定されていた。その手元に視線を送れば、黒目があからさまに泳ぎだす。観念したように、彼はため息をつく。


「俺は今、どうしようもなくあなたを抱きしめたい気持ちでいる。しかし、果たしてそれがあなたの慰めになるのだろうかと悩んでもいる」

「はあ……」

「澄子さん、俺はあなたを抱きしめてもいいのだろうか?」


 眉を下げたままの顔で問いかけれても、私はただ彼を見つめることしができない。精悍な顔立ちが台無しだと心の片隅で他人事のように思った。


 しばらく呆然と彼の言葉を反芻して、やっと飲み込んでから、私はゆっくりと首を横に振る。


「ごめんなさい、春嗣さん。今は……彼女の温もりを覚えているうちは、誰にも触れられたくありません」

「そうか、わかった。そんな気はしていたから、気にしないでくれ」

「ありがとうございます」


 頭を下げれば、彼は「いいんだ」と朗らかに返してくれた。その後少しだけ世間話をして、彼は町へと帰っていった。私の膝にはまだ山犬が乗っていたから、それとなく見送りを辞退してくれたのに思いやりを感じる。


 その姿が見えなくなってからも、山犬が起きるか、家族に呼ばれるまで、私はそのまま軒下にいることにした。稲刈り前の時期は日が短く、空の端は橙色に染まり始めている。夏はあんなに日が長かったのに。私は鬼と共に過ごした日々を思い出しながら、山犬の背を撫でていた。

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