4-②
彼が家に通い始めて半月ほど経った頃だった。昨夜の雨でぬかるんだ道を、私は彼と二人で井戸へ向かって歩いていた。水汲みの雑用に付き合わせるわけにはいかないと同行を拒んだけれど、彼は「二人で行けばたくさん運べる」と言って譲らなかったから、私はしかたなくそれを受け入れた。
その頃には天候も落ちついていて、村は日照りなどなかったかのように回復していた。青々としていた田んぼからは水が抜かれ、黄金色の稲が頭を垂れながら揺れている。もうすぐ稲刈りが始まるだろう。そこで採れた米はきっと、山神を祀る神社に奉納される。本当に奉るべきはそこではないのに。私は揺れる金色に、いつかの彼女の瞳を重ねた。
他愛もない話をしながら井戸へ向かう最中、私たちはほぼ同時に足を止めた。道の先、ちょうど井戸のある方向が妙に騒がしい。人の怒声にまじって獣の吠える声も聞こえる。餌を求めて山から迷い込んできたのを追い払おうとしているのだろうか。
「なんの騒ぎだろう。澄子さんは危険だからここにいてくれ」
「いえ、私も行きます」
彼の言葉に首を振りつつ、私はそちらへ小走りに向かった。山から降りてくる獣。もしかしたらと、あの山犬の姿を思い浮かべる。なんとなく嫌な予感がした。
井戸屋形が見えてきたところで、聞こえた怒鳴り声に再び立ち止まる。さっと目の前で翻る藍染の羽織。駆け出した彼の背中越しに見覚えのある獣の姿を見つけ、私も慌てて追いかける。
嫌な予感とは的中するもので、村人たちに囲まれているのはあの山犬だった。ぐるると唸る獣を囲む輪の中には、木の棒を持った者もいる。
「モモ!」
その名前を呼びかけると、眉間に血のにじむ顔がこちらを向いた。殴られているのだ。私は堪らない気持ちで輪の中に入り込み、木の棒を持った男からそれを取り上げた。
「叩くのはやめて! この子が何か悪さをしたの?」
「悪さって、これは山犬だぞ。って、なんだ澄子じゃないか」
棒を持っていた男はため息をつくと、輪の中心でこちらを威嚇している山犬を見る。
「獣が村に入れば、子どもに噛みつくかもしれないだろ。追っ払ってんだよ」
「この子は山神様の遣いよ。そんなことしない。私、山にいる間ずっと、この子に助けられていたの」
訝しげに首を傾げる男を後目に、私は山犬を振り返った。しゃがんで目線を合わせると、山犬は徐々に警戒を緩めていく。静かな声で「モモ」と名前を呼んでやれば、新緑の瞳がきろりとこちらを見た。
「おいで、モモ。もう大丈夫よ」
繰り返し名前を呼びながら微笑むと、山犬は疲れたようなか細い鳴き声を上げて私の膝元にすり寄る。周囲の村人たちが騒めくのが聞こえたが、無視してその頭を優しく撫でた。体中傷だらけだ。中でも眉間の傷が痛々しい。そこ以外は大したことないけがだけれど、山犬の体にはそこかしこに泥がついていた。早くきれいにして、手当をしてやりたい。
「山犬は人に懐かないものだぞ。本当に、あなたには驚かされてばかりだ」
隣にしゃがんできた彼が驚いたような声音で言う。懐くまでの経緯を説明できず、私はなんとか曖昧に頷くのにとどめた。
「山で生活できたのは、この子のおかげなんです。手当をしたいので、家に戻ってもいいですか」
「もちろんさ。歩けるだろうか? 俺が抱えてもいいが……」
言いながら、彼はそっと山犬に向かって手を伸ばす。しかし、手負いの体はそれをすいっと避けてさっさと歩き出してしまった。けがも、自分に危害を加えた村人たちさえも知らん顔で歩いて行くのはさすがとしか言えない。隣には、ぽかんと口を開けて山犬の後ろ姿を見つめている彼がいて、私はとうとう吹き出してしまった。
「嫌われたようだな」
照れ臭そうに彼が笑って頬をかくものだから、私はこらえきれず声を上げて笑った。
「まあ、あなたが笑ってくれるのならいいものだよ」
立ち上がりつつ、さらりとそんなことを言うのもおかしい。差し出された大きな手を何も考えずにとったのは、きっとそんな気分だったからだろう。家へ戻る道すがら、ふと手を繋いでいることに気づいて慌てて手を振りほどいてしまった。
こちらの気まずい空気を察してか、先を歩いていた山犬が私の横にそっと寄り添ってくれる。久しぶりに感じる頼もしい存在に、私はほっと安堵の息をついた。
「本当に、よく懐いているんだな」
「はい。山の社に着いた日から、ずっと一緒に過ごしていたんです」
にこりと山犬に微笑むと、泥に汚れた尻尾がふさりと揺れた。肯定してくれているようだ。この感じも懐かしい。
「……まさかとは思うが、この山犬じゃないよな?」
「なんのことですか?」
突然の問いかけに、私は首を傾げて彼を見る。彼は気まずそうに目を泳がせつつ、少しの間唸ってから観念したように口を開いた。
「あなたの、その……心を射止めた人の話だよ」
「はい?」
「いや、自分でも変なことを言っているとはわかっている! わかってはいるんだが……」
はあ、と大仰なため息が響く。山犬が迷惑そうに鼻を鳴らした。
「今のあなたは、本当に幸せそうに笑っているから。邪推だってするさ」
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