越冬の章 ~再びの夏~
4-①
石畳の敷かれた道を、私は両親と妹を伴って歩く。
先導するのは父。傍らで手を引くのは母。雨を避けるための傘を持つ妹が、その後ろに続く。
日中だというのに薄暗いのは、昨日から続く雨のせいだ。秋の豊穣を言祝ぐように降り注ぐ雨のせいだ。しとしとと密やかに響く雨音を聞きながら、私はわざと足元の水たまりに踏み入る。真っ白な花嫁衣装が泥に汚れるのがむしろ小気味いい。
「姉さん、足元気をつけて」
「ふふ。わざとしているの」
「もう姉さんたら。せっかくきれいな白無垢なのに」
こそこそと話しかけてくる妹に同じようにこそりと返す。「静かに」と母からたしなめられて、私たちは顔を見合わせて笑う。両親もつられて笑っていた。
「見えてきたぞ」
父の声に、私は前方を見る。少し歩いた先に、町で一番立派な商家の門扉が見えた。その前には、精悍な顔つきの青年が待ち構えている。
これから私は、彼のもとへ嫁に行くのだ。
歩みを進めながら、私は鬼の元に向かうときも同じようなことを思っていたことを思い出した。あの時は両親と、特に妹への申し訳なさに潰されそうになっていた。自分が村人たちを救えるのならと受け入れた生贄の役目。理想の少女のまま、あの幸福な村から逃げるために選んだ道。本当は、死ぬことは恐ろしくてたまらなかったし、家族を悲しませるのも切なかった。
そして出会った、強くて、優しくて、悲しい鬼。私の幸せを願って、村に戻れと言ったひどい鬼。私はあの美しい鬼を確かに愛していたし、きっと彼女も私を愛していた。それでも別れを選んだのは、その愛の深さ故だろう。私の恋情は、彼女の愛情に負けたのだ。
村に戻った私に、まず与えられたものは「おかえり」という家族と村人たちからの言葉だった。父は「すまなかった、本当にすまなかった」と言いながら私を抱きしめ、母はただ泣きながら私の頬を撫でてくれた。老人たちの中には「生贄が戻ってくるなんて」と、山の神からの祟りを恐れる人もいたけれど、私が村に戻って一週間ほど経った頃に降り始めた雨のおかげで、その恐れも次第に薄れていった。
「澄子さん」
門扉の前から彼が私を呼びかける。私は真摯にこちらを見つめる男の目を見返す。
この婚約は、正直に言えばこのままうやむやにしてしまいたかった。今さら鬼以外のものに恋をする気はなかったし、私は元々彼に対して恋愛感情を抱いていなかったからだ。
◆
私が村に戻って十日ほど経った頃。雨が静かに降る日に、彼は私を訪ねて村までやってきた。
「姉さん、お客さんだよ」
「私に?」
「うん。春嗣さん」
何気なく妹が言った名前に、私は思わず上げかけていた腰を再度下ろしてしまった。「何してんの」と渋面をつくる妹に腕を引かれながら向かった玄関には、素晴らしい着物や食べ物を土産にやってきた商家の息子の姿。ここまでされたら家に上げないわけにはいかない。私はしぶしぶというのを顔に出しつつ彼を迎え入れた。
「あなたが無事でよかった。それで、澄子さん。もしよかったら、また俺との婚約を考えてくれないだろうか」
軒先に腰掛けてすぐに、彼は私に向かってそう切り出した。予想していなかったわけではない。しかし、こうも単刀直入に切り出されるとは思っていなかった。ふと、彼のこういう真っ直ぐなところを気に入っていたことを思い出す。商売人の家に生まれたくせに愚直。けれど、誠実な青年だった。
私は居住まいを正しつつ、彼に向き直る。その真摯な色を宿す黒目を見つめ返すには、少しだけ勇気がいるなと内心で苦笑した。
「申し訳ありませんが、お断りいたします。贈り物も、その、受け取れません」
一瞬だけ見開かれた黒目。しかしそれはすぐに平静を取り戻す。
「理由を、聞いても?」
「……心に決めた方がいるのです。強くて悲しい、美しい方です。私の幸せを誰よりも願ってくれている方です。私の恋心は、すべてその方が持って行ってしまいました」
言いながら、私は知らずに微笑んでいた。あの鬼を語るだけで、こんなにも温かな気持ちになれる。これ以上の恋情を、他にどうやって抱けるというのだろうか。
「あなたの愛情に見合うだけの愛を、私は返すことができません。私は春嗣さんの誠実さを好ましいと思います。そんなあなたに、不誠実な私はつり合わない。どうか、お引き取りを」
口元に笑みを浮かべながら言う女の姿を、彼はどうとるのだろうか。私はじっとその黒目を見つめていた。彼もこちらを見て押し黙っている。曇天の空の下、雨音だけが周囲に響いていた。
最初に口を開いたのは彼だった。
「そう、か……くく」
呆然と紡がれた言葉の後に続くのは、押し殺したような笑い声。ちぐはぐなそれに、私はこっそりと身構える。彼に限って暴力に訴えるようなことはしないと思うけれど、念には念をだ。
そんな私を後目に、彼はとうとう堪えきれないというように声をあげて笑い始めた。からからと響く笑い声に暗い感情は見受けられない。
「ははは、いや、失敬。ならば提案なんだが、これからは友人としてあなたに会いに来てもいいだろうか」
「……は?」
「あなたの話を聞かせてほしい。山での生活を、あなたの心を射止めたその人の話を、俺に聞かせてくれ」
「は、はあ」
勢いに押されて頷くと、彼は満足そうに頷いて立ち上がる。
「よし。ならば今日はこれでお暇させていただこう。ご両親と涼子さんによろしく伝えてくれ。次はうまいものを土産に持ってくるよ」
「いえ、ですからお土産は……」
「一緒に食べよう。俺もあなたに知ってほしいことがたくさんあるんだ」
彼はそう言って嵐のように去ってしまった。雨の中、藍染の羽織が鮮やかに揺れながら消えていく。
思えば、私にとってこれが最初の誤算だったのかもしれない。それから彼は、三日と置かずに私を訪ねてくるようになった。私と他愛もない会話をするためだけに、決して、町から近い距離ではないこの村にやってくる。彼の持ってくるお土産はお茶やお菓子といったもので、あれよあれよと言いくるめられてお茶請けとしていただいてしまうのだ。彼の商人のとしての姿をこんなところで見てしまうなんて、私は思いもしなかった。
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