閑話④

 少女の姿が完全に見えなくなった刹那、鬼はぺたりとその場に座り込む。長いため息をつきながら空を見上げると、憎らしいほど澄み渡った青が見えた。


 絶え間なく落ちてくる雫を頬に受けて自嘲気味に笑う。あの少女を返したことを、彼女はさっそく後悔していた。その反面、心持ちはどこか清々しくもある。不思議な心地だった。


「ずっとそうしているつもりかい? 濡れてしまうよ」


 あどけない声に振り返る。少年の姿をしたまま、山犬がそこにいた。


「……なんだ。お前、澄子についていかなかったのか」

「ついて行きたかったよ。僕は君よりもあの子が好きだからね」

「ならば行けばいい。おれのことは放っておけ」


 投げやりに言ってやれば、山犬はくすりと笑った。その横にしゃがみこみ、「そうはいかないのさ」とこちらを覗き込む。新緑の瞳を見つめて、鬼も「そうだったな」と笑った。


 長い沈黙の中、二人はただ雨の降る音を聞いていた。鬼が少女に己の過去を語った夜、互いに交わした約束を思い出しながら。


  ◆


 少女の寝息が聞こえた頃、鬼は社の外で息づくものにため息をついた。


「こちらの過去を盗み聞きとは、趣味が悪いことだな」


 呟くように言ってやれば、背後で社の扉が静かに開く。振り返れば、そこには少年の姿をした山犬が立っていた。彼は不服そうに唇を尖らせて「しかたないじゃないか」とむくれている。


「村から戻ったら、君と澄子が勝手におしゃべりしていたんだよ。邪魔なんてできるわけないだろ」

「気遣い痛み入るな」


 眠る少女を起こさないように身を起こし、鬼は山犬に向き直った。


 開け放った扉から差し込む朝焼け。青紫色の光を背中に受けて立つ少年の姿をしたそれに、鬼は目を細める。


「君、この子を村に返そうとしているんだろう」

「ははあ、どうだろうな」

「誤魔化さなくていいよ。僕にはわかる」


 若葉と同じ色をした瞳が細められる。それはどこか寂しそうに笑うと「それがいいと、僕も思うよ」と言った。


「もうすぐ、この子の妹が迎えに来るよ。この子がいなくなったら、ここは寂しくなるだろうね」

「……そう、か。そうだな。お前はどうするつもりだ」

「僕は……そうだね。この子の傍にいてやりたいなあ」


 それはゆっくりと鬼の隣に座ると、眠る少女を見つめた。慈愛に満ちた表情で少女の白い頬を撫でる。


「ねえ、僕と取引をしないか」


 ぽつりとそれは言った。


「……話が見えんな」


 返す自分の声は思いの外低く響いた。鬼は内心を悟られまいと無表情を作る。


「ふふ。薄々感づいていたんだろう? 野暮なことは言っちゃいけないよ」

「確信がない。はっきり言え」


 色素の薄い髪が揺れる。幼い面差しの中で、その瞳だけがいやに大人びていた。彼と落ち着いて話をするのは初めてかもしれない。鬼は少年の姿をしているそれの全貌を観察した。


 己を山神の眷属だと名乗るそれの正体はただの山犬のはずだ。山犬が少年の姿をとることができるのは、確かに神の加護があればこそなのだろう。だが、麓の村に神社が建ち、村人たちに信仰心が戻るまでは、本当にただの獣だったと鬼は記憶している。今でさえ山犬の姿をしているときは、多少の知性はあれど本能に従順な獣だと思っているのに。


 この姿と獣の姿の落差が激しすぎるのだ。まるで、少年の姿をしているときは、違う何かが乗り移っているような気さえする。


「お前は何者だ」


 片目を細めて、鬼はそれを見つめる。彼は眉を下げると、諦めたように苦笑した。


「僕は、山の神だよ。――信仰を失い、権能をなくし、守るべき人々を捨てた祟り神さ」


 やはり、そうか。鬼は自身の考えが的中していたのだと息を飲む。


「眷属である山犬の体を借りてやっと姿を現せる。惨めなもんだよ」

「名乗らなかった理由はそれか? くだらんな」

「まあね。神様ってだけで、澄子に萎縮されるのも嫌だったし」

「ああ……」


 思わず漏れ出た吐息に苦笑する。眠る少女をちらりと見た。確かに、彼女ならば素直に畏怖してくれそうだ。


 鬼の様子に目を細めると、それはゆっくりと立ち上がる。


「さて、僕の正体がばれたところで、君と取引がしたいんだけど」

「さっきも言っていたな。断る。神との取引など、ろくなものではないだろう」

「冷たいなあ。僕の山に住まわせてあげたんだから、ちょっとくらい聞いてくれてもいいじゃないか」

「誰のおかげで信仰を取り戻したのかもう忘れたのか? そもそも、追い出す力すらなかっただけだろうに」

「それを言われるとちょっと痛いね」


 新緑の瞳が鬼を見下ろす。鬼は黙ってその視線を受けていた。


「代替わりをしたいんだ。僕はもう、山の神をやめたい」


 それの視線が鳥居の方を向いた。


「そして、次の山神には君になってほしい」


 ざわりと社の外で木々が揺らめく。どこからか獣の鳴き声がした。


 思いもよらない提案に、鬼はその横顔を凝視する。


「なぜ、おれなのだ」

「村人たちの信仰心を勝ち取ったのは君だろう。先代の引き起こした祟りひでりから、村人たちを守ったのは君だ。村人たちの信仰心の矛先を、あるべき場所に戻さなければならない。次代は君しかいないんだ」

「おれはただの鬼だ。神になどなれない」

「なれるさ。僕が認める。それに、君は澄子の村を見守りたいとは思わないのかい? 澄子の居場所を、その手で守っていきたいとは思わないのかい? 君があの子を返した場所を、こんな祟り神に任せていていいのかな?」


 再びそれがこちらを向く。木漏れ日のような新緑色はなりを潜め、その瞳は夜の森のような、ひどく暗い色をしていた。微笑みを浮かべていた幼い面差しは冷たく凍りつき、何の感情も浮かべていない。


 暗い瞳を受けて、鬼は思わず身構えた。初めてそれが見せた表情に、彼女は本能的に逃げの姿勢を取っていた。背中を嫌な汗が伝っていく。


「僕を神の座から引きずり降ろさない限り、村の日照りは続くよ。もう、僕には止められないんだ」


 くしゃりとその顔を歪めて、少年の姿をしたそれは顔を覆う。


「頼むよ。もう、嫌なんだ。村人を傷つけるのは、もう嫌だ。今は、この子がいるおかげで心が安らいでいる。だからなんとか抑えられている。でも、この子がいなくなったら、僕はもうどうなるか……わからないんだよ。それが、どうしようもなく恐ろしい」

「脅しか」


 うずくまるそれに鬼が尋ねる。しかし、彼は「そうじゃない」と首を振った。小さく丸まった体からは、先ほどのような敵意は感じられない。


「お願いだ。君に守ってほしいんだ。他でもない、澄子を」


 小さな手が鬼の裾を握った。


「僕はこの子を愛している。この子に救われたんだ。この子を守りたいんだ」

「ならば、神として再起し、この娘を守ればいいだろう」

「できないんだよ」


 それが顔を上げる。新緑の瞳からぼろぼろと涙を零しながら、それは――山の神は鬼に縋った。


「一度呪いを振りまいた神に、もう祝いは起こせない。一度祟り神に堕ちたら、もう元には戻れないんだ」


 揺れる瞳を見つめる。鬼は静かにため息をついた。


  ◆


「社の中に入ろうか」

「ああ」


 濡れた石畳を、鬼と山の神は並んで歩く。あの少女が懸命に手入れしてくれた社の前に立って、少年の姿をした神は朗らかに笑った。


「神というのは惨めなものだ。人間の信仰心がなければ、正しい形すらとれない」


 ゆっくりと歩きながら、山の神は信仰というものについて鬼に語った。


 人の信仰は心の中にもつものだけではないと彼は言う。人々は信仰心を表すために神社を作り、そこを手入れし、飾り立て、作物を供える。そうすることによって神を奉り、その信仰心を見せるのだ。己の人生を豊かにするために。


「この社も、本当はもっと立派だったんだよ」


 低い声が響く。聞き覚えのないそれに隣を見て、鬼は思わず目を見張った。少年だったはずの山の神の姿は、青年の姿まで成長していた。


 美しい青年だった。短く整った色素の薄い髪。白く輝く狩衣を颯爽と翻して歩く姿。きっと、これがこの神の本来の姿なのだろう。


 青年は照れ臭そうに「驚いた?」と笑う。


「社が出来た頃、麓の村人たちはよくここを訪れてくれた。畑で採れた作物を供えたり、町で買ってきた酒をここで飲みかわしたりしていた。僕は彼らの笑い声を聞くのが好きだったんだ」


 社の扉へ続く木の階段を上り、彼は「でもね」とその瞳を陰らせた。


「人は、豊かになりすぎると欲が出る。欲が出ると、信仰は疎かにされる」


 扉にかけられた彼の手は、みるみるうちに肉が削がれて細くなっていく。まるで木が枯れていくようだ。弾かれたようにその顔を見ると、そこには薄汚れた貧相な老人が立っていた。


 しわくちゃの顔に、先ほどまでの美貌は見る影もない。着ているものもぼろぼろで、汚い布を体に巻きつけているようだった。これが、祟りを起こした神の姿なのか。


 鬼は慄く唇を隠さずにそれを見つめる。それは歯の抜けて空洞のようになった口を歪めると、にったりと目を細めた。笑っているのだ。


「怯えずともよいよ」


 しゃがれた声。細められたその瞳だけがまだ木漏れ日の色を保っていることに気づいて、鬼はこっそりと安堵する。


「信仰をなくし、人々から捨ておかれた神の有り様がこれだ。だが、お前は怯えなくてよい」


 社の中に入ると、それはいつの間にか少年の姿に戻っていた。


「君には、澄子がいるからね。あの子は君のことを絶対に忘れないだろう。あの子の信仰は、君だけのものだ。君は絶対に、こうはならない」


 少年は奥の小上がりに腰掛けると、にっこりと笑う。


「さあ、おいで。名嘉山なきやまの鬼──ナキよ」


 天井に開いた無数の穴から差し込む日差しが、まるで木漏れ日のように降り注ぐ。時折漏れてくる雨の雫が頬に当たった。


 ――取引といったな。おれに何の得がある。


 彼から山神の代替わりを持ち掛けられた日、鬼は最後にそう問いかけた。少年の姿をした山の神は、鬼の心が揺らいでいること悟ってか半ば安堵したように微笑んでいた。


 ――僕が責任をもってあの子を守るよ。代替わりが終われば、僕はただの獣に成り下がるだろう。けれど、山からの呪縛は解けて人里でも暮らせるようにもなる。そうしたら、僕は必ずあの子の元へ行くよ。約束する。君の代わりに、あの子を守るよ。


「……結局、お前しか得をしないじゃないか」


 苦笑気味に呟いて、鬼は静かに山神の小さな手を取った。


 だが、それでいい。お前がそばにいるのなら、あの子はきっと大丈夫なのだろうから。それに、お前の姿を見て、きっとあの子はこの社で過ごした日々を思い出すだろう。


「いいじゃないか。僕はずっと、あの子に慕われている君が羨ましかったんだから。それくらいの仕返しくらい、したっていいだろ」


 ぷくっと愛らしく頬を膨らませる少年に、鬼はべっと舌を出す。


「中身がじじいだとわかったからな。ほだされてなどやらんし、可愛らしいとも思わんぞ」

「嫌なやつだな、君って」

「お互い様だろう」


 ひとしきり笑うと、鬼は少年の瞳を見つめた。新緑の瞳は真摯な光を湛えながらこちらを見つめ返す。


「澄子を頼む。お前にしか頼めない」

「わかっているよ」

「……代替わりを受け入れよう。おれがお前の後を引き継いでやる」


 そう言った直後、繋いでいた小さな手がぎゅっと鬼の手を握った。骨を折らんばかりのその力に、思わず顔を歪める。


 次いで、すぐさまそこから脈打つ何かが自分の中に入り込んでくる感覚が鬼を襲った。いつの間にか噛みしめていた奥歯。口の中で血の味が広がる。この感覚は、そうだ、あの時に似ている。男から呪いを受けた、あの時に。


「く、そ……気持ち悪い」


 毒づくと、あどけない声が「我慢して」と命じた。我慢などできるか。そう思いながらも、鬼はその手を振り払わないように自分を戒めた。すべてはあの少女のために。


 冷や汗をかく鬼とは対照的に、周囲はひどく穏やかだった。相変わらず天気雨は続いていて、燦々と降り注ぐ陽光と雨が社の中に入り込む。時折チチと鳥の鳴く声がしていた。


 もう、無理だ。解放されたのは、そう思った直後だった。

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