3-⑭
一歩後退ると、背中に柔らかな何かがぶつかる。弾かれたように後ろを見ると、そこには鬼が立っていた。彼女は私の肩をそっと持ち、金色の瞳を静かに揺らめかせる。
「姉さんがいなくなってから、父さんが教えてくれたんだ。きっと、澄子は逃げたかったんだろうって言ってた。申し訳ないことをしたって、言ってたよ」
「うそ……うそよ」
「嘘じゃない。だから父さんは、姉さんが生贄になることに反対しなかったんだよ。むしろ村の老人たちを説得してた」
崩れ落ちそうになる私を鬼が支える。「ああ」と吐息のような声が漏れた。
「そんな……父さん……」
全部、知っていたの? 知っていて、父さんは私をここまで送り出したの? 肩を掴む鬼の手を握る。震えは止まらない。父さんは、本当の私をわかっていて、全部を許してくれたの?
そんなことを知ってしまったら、私は。
「ナキ様……」
帰りたくなってしまう、あの村へ。
鬼を見つめると、彼女は眉を下げて微笑んだ。それでいいと言うかのように。
「姉さん、帰ろう。一緒に、村に帰ろう?」
妹を見る。妹も笑っている。
「涼子……」
どうして。どうして。唇を噛む。どうして、この人たちは、こんな私に優しいのだろう。すべてを晒したというのに、受け入れてくれるのだろう。
空いている方の手に、柔らかくて温かいものが触れた。そちらを見ると、少年が私の手を握っている。
「戸惑っているね、澄子。大丈夫、安心して二人を信じれば良い」
「モモ……でも、でも、私、わからない。どうして、涼子もナキ様も、こんな私に優しくしてくれるの?」
困惑するのを隠さずに眉を下げると、彼は「しょうがない子だなあ」と呆れたように笑った。
「本当に君はかわいい子だね。それは、二人が君の本当の心根を知っているからだよ。君の本質は、君が演じていると思っている方の『澄子』なんだ」
「そんなことない……私、本当に嫌だった……」
「でも、村人たちを想う気持ちは嘘じゃないだろう? 逃げたい気持ちも、疲れているのも本当なんだろうけど、君が村人を救いたかったのも本当だ。君の笑顔も、優しさも、本物だった。だから、二人は君が多少わがままでも許せるんだよ」
ふわり、少年が微笑む。木漏れ日のような瞳が細まって、きらきらと揺らめく。
「そんな君が、僕も好きだよ」
とうとう私は声を上げて泣いた。肩を抱く鬼の腕に縋りながら、子どものように泣いた。
「――じゃあ、姉さん、帰ろうか」
私が泣き止んだ頃、鳥居の向こうから妹が手を差し出した。彼女は鬼の言いつけを守り、鳥居からこちら側には一歩も入ってこなかったのだ。妹の律義さに苦笑しながらその手を取りそうになって、私は我に返る。伸ばしかけた腕を戻して、小さく首を振った。怪訝そうに妹が首を傾げる。振り返ると、鬼と少年も妹と同じような表情をしていた。
「でも私、雨が降るまではナキ様の傍にいたい……。ね、ナキ様。雨が降ったら、言いつけどおり村に戻ります。だから、どうか、雨が降るまでは、あなたのそばにいさせてください」
また、わがままだと思われてしまうだろうか。けれど、自分から持ち掛けた約束は守りたかった。半ば開き直るような気持ちで言うと、鬼はぱちりとその金眼を瞬かせて高らかに笑った。
「愚かな女だな。このまま素直に帰ればいい話で終わったものを」
「ごめんなさい……」
ちらりと妹を見ると、彼女も眉を下げて笑っている。しかたないなと言うような笑い方だ。呆れられているのだろう。私は恥ずかしくなって俯いた。
「顔を上げろ、澄子。……約束、だからな」
恐る恐る顔を上げる。鬼が私に手を伸ばしてくる。
「――あ」
声を上げたのは、妹か、山犬か。
鬼の白い指先が私の頬に触れるよりも早く、私の頬にぽつりと小さな雫が触れた。
「え?」
もう少しで触れそうなところで鬼の手が止まる。彼女の白い指を、紅色に色づく爪の先を、静かに雫が伝っていく。
呆然と空を見上げると、白々しいほどに澄んだ青色が広がっていた。
それでも、天からは無数の雨粒が落ちてくる。
「……雨か」
鬼が長いため息を吐いた。その手は私の頬を一度だけ撫でて離れていく。
「天も、ここで別れるべきだと言っているのだな。約束だ、澄子。破ってくれるなよ?」
綻ぶ花のかんばせ。どこか諦めたような色を浮かべながら、彼女はそれでも穏やかに微笑んだ。
「ナキ様……」
名前を呼べば、鬼は私の額に静かに口づける。
「必ず会いに行くよ。お前がその営みを生き抜いたならば、おれは必ずその人生が美しいものであったか尋ねに行こう」
囁くように紡がれる言葉に、私は自分の胸が脈打つのを感じた。会いに来てくれる。なんて切なくて、意地悪で、甘美な約束だろうか。私はこれから訪れる、鬼を待つ人生に眩暈のような恍惚を覚える。
ぼんやりと鬼を見つめる私の肩を、彼女はそっと押す。よろめきながら鳥居の外へ出ると、妹が私を受け止めてくれた。
「帰れ、澄子。お前が美しいと信じた人の営みを、おれのために捨ててはならん」
鬼は清々しく笑う。晴れやかな空の下、ささめくように降り注ぐ雨を受けながら。濡れたざんばら髪から雫が一滴、鬼の頬を伝って顎から落ちていった。
「はい……ナキ様。お待ちしています。ずっと」
優しい金色を名残惜しく思いながら、鬼に一度だけ頭を下げる。そのまま石畳をたどり、私は妹と共に山の社を後にした。
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