3-⑬

 鬼の言葉が頭の中に響く。その美しい音を聞きながら、私はその場に膝をついた。膝から下がなくなったような心地だ。全身から力が逃げていくような、心地だ。


「なに……? ナキ様……?」


 ざんばら髪が散る鬼の背中を見上げた。お願い、こっちを見て。祈るような気持ちで鬼の名前を呼ぶ。


「村に戻れ、澄子。人の営みの中に戻れ」


 しかし、鬼はこちらを見ない。


「……どうしてですか? どうしてそんな、急に……?」

「昨日おれはお前に言っただろう。人の営みを教えてほしいと。そして、お前はそれを承知したはずだ」

「そんな、そんな……!」


 体の中から何かが湧き上がってくる感覚に、私は全身を震わせた。こみ上げる感情が、悲しみなのか怒りなのか、もう私にはわからない。力の入らないまま震えるだけの腕をなんとか伸ばし、私は鬼の着物の裾を掴む。ぐいっと引き寄せると、やっと鬼の金眼がこちらを向いた。


「雨が降るまではお傍にお仕えすると言いました。私は帰りません……!」


 見開かれる金色。彼女はその端正な顔を一瞬だけ歪めて、私の手を振り払う。その勢いのまま、私は思い切り倒れ込んでしまう。振り払われた手が熱い。妹か少年の私を呼ぶ声が、どこか遠くで聞こえたような気がした。


 私は自分の手と鬼を交互に見つめた。何度かそうするうちに、目頭が熱くなって、涙が視界を滲ませる。泣きたくない。けれど、止められない。


 なぜ。なぜ、彼女は今さら私を突き放すのだろうか。出会ったばかりの心を閉ざしていた頃とは違う。お互いの情は通っているはずなのに。


「お願いです、ナキ様。どうか、私を傍においてください」


 縋る声はみっともなく震えていた。涙を拭い、私はまた鬼を見つめる。


「ならん」


 揺れる金眼。突き放すのならばなぜ、彼女はこんなにも切ない光を、その金色に湛えるのだろうか。


「人の営みを美しいと尊びながら、お前はそこへ戻ることを拒否している。それは、お前がそこに恐れを抱いているからだ」


 鬼は私の前にしゃがみ込む。白いてのひらが私の頬を優しく撫でた。


「甘ったれるなよ、人間」


 低い、冷たい声が響く。


「美しいというのならば、その恐れも受け入れろ。その営みの中で生き抜き、それでも美しいと言えるのならば――おれはそれを見とめよう」


 凛とした声が頭の中で響きまわる。


 そう、私は恐れている。巡る季節の中、確実にやってくる冬を、私は恐れている。


 村で生きていくのに、器量の良い娘であることは役に立った。優しく、聡明で、美しい娘。ただそうあるだけで、村人たちは優しくしてくれた。本当は、すべて演じていたもので、本当の私は臆病でわがままな娘なのに。


 演じるうちに、村において『澄子』という娘はそういう娘であることが定着してしまった。完全に定着しきった頃、私は本当の自分がいつ露呈してしまうのかと怯え始めていた。本当の私を知ってしまえば、村人たちは離れて行ってしまう。家族からも呆れられるだろう。


 村人たちを落胆させたくないと思うくらいに私は彼らを愛していたけれど、それと同じくらい、私は『澄子』であることに疲れていた。そんな私にとって、生贄の話はまさに、救いだったのだ。


 花のかんばせを見上げる。よく晴れた空を背景に、金色の瞳が太陽のように輝いている。私はそれを見上げながら、ただ泣いて首を横に振った。


「できません……私、できない。私は、臆病で、何もできない、役立たずなのに……」

「そんなことない」


 無様な泣き言を遮る声に、私は思わず振り返る。妹の声だった。妹は唇を噛みながら、こちらをじっと見つめている。


「姉さんの優しさに、笑顔に、村人たちは救われていたよ。父さんも、母さんも。もちろん、あたしも。姉さんは、村の花だった」

「それが嫌なのよ!」


 叫びながら私は立ちあがり、妹の前に出た。妹が初めて後退る。


「本当の私はね、ずるくて嫌な奴なのよ。自分の容姿が役に立つことをわかって、にこにこしてた。そうすれば喜ぶってわかって、優しい言葉をかけてた。私、みんなに嫌われるのが怖かったの。だって、私は孤児で、村や家族に捨てられたら、私にはどこにも居場所がなくなっちゃうのよ!」


 妹の肩を掴んで、私は叫ぶ。今まで我慢していた分、全部を伝えるために。


「でも私、もう疲れたの! 自分で勝手にやってたことだって、わかってるけど、もう良い子をするのは嫌なの! ここはいいところよ。私が良い子じゃなくても、ここには私の居場所があるの。ナキ様も、モモも、私に優しくしてくれるの!」

「姉さん……」


 ああ、もうお終い。私は妹の肩に自分の額をつけた。嗚咽を漏らす私の背中に妹の手が回る。こんな姉を、慰めてくれるとでもいうのだろうか。私は泣きながら自嘲した。


「戻れるなら……戻りたいよ。でも、もう、取り繕えない。取り繕う方法を、思い出せない。今の私を見て? わがままでしょう? 嫌な奴でしょう? 私のこと、嫌いになったでしょう? 私、みんなに嫌われたくないよ……」


 嗚咽混じりに漏れ出た本音に、妹が肩を揺らす。


「……嫌いになんて、なるわけないじゃない」


 ぎゅっと妹が私を抱きしめる。その声は震えていて、今にも泣き出しそうだった。


「全部、知ってたよ」

「え……」


 思いもよらない言葉に、私は妹から体を離す。彼女は困ったように笑っている。


「姉さんが、そうしていること、父さんは全部知ってたんだよ」

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