3-⑫

 鳥のさえずりが聞こえる。稲わらの匂いに目を開けた。そばに鬼の姿はなく、代わりに天井の穴から差し込む陽光が社の中を穏やかに照らしていた。目を細めながら体を起こすと、扉の前に少年の姿をした山犬が立っている。


「おはよう、モモ。戻ってきたのね」


 少年は一度だけ瞬きをして、少し寂しそうに笑う。


「ああ、おはよう。……君にお客さんだよ」

「お客さん?」

「そう。早く行ってあげな」


 小さな手が扉にかかる。ゆっくりと開かれたそこから差し込む光に、私は思わず目を閉じた。


「やっと起きたか」


 眩む目を抑えながら外に出ると、楽しそうな鬼の声が聞こえた。まだ眩しいのをこらえて鬼の姿を探す。視界を巡らす最中、ここにいるはずのない人の姿を見つけて、私は目を見張った。


「どうして……」


 漏れ出た声に、鳥居の向こう側に立つ妹は気まずそうに目を逸らす。遠くでまた鳥の鳴き声が聞こえた。


「ごめん、姉さん。どうしても、話がしたくて」


 妹が一歩踏み出す。後退ろうとする私の手を、いつの間にか隣に立っていた少年が強く握る。あどけないはずのその表情は、まるで大人の男のように厳しい目で私を射抜いている。逃げてはならない、向き合え。新緑色の瞳は、言外にそう伝えようとしているようだった。


 そうしている間も、妹はこちらへ近づいてくる。石畳を真っ直ぐに歩いて、私の方へ。


「止まれ」


 鳥居をくぐろうとした刹那、凛と響いた声に妹が足を止める。


 鬼の声だ。その姿は見えないけれど、確かに鬼はここいる。そのことに、私はほっと息をついた。


「娘よ、鳥居よりこちら側は神域だ。入ることは許さん」


 くつくつと喉を鳴らす鬼に、少年が唇を尖らせる。


「ちょっと。それを決めるのはまだ君じゃないよ」

「けちな奴だな。いいだろう、少しくらい」


 言いながら、鬼が鳥居の前に降り立った。ざんばら髪が扇のように広がって、ゆっくりと彼女の背中に落ちていく。どうやら屋根の上にいたらしい。ちらりとこちらを見て、鬼はいたずらっぽく笑った。


「あなたが、山の神様ですか?」


 妹の強張った声が社に響く。そちらを振り返り、鬼はと「ふん」と鼻を鳴らした。


「いいや、おれはただの鬼だ。だが、おれこそがこの社をねぐらにするものでもある」

「では……村に井戸を掘ったのは、あなたなのですか」

「しかり。美しい贄を受け取ったものだが、おれには生憎と雨を降らすなどという力はなくてな。鬼は鬼なりにできることを為したのだ。なんだ、人間。不服か?」

「い、いいえ。あなたの掘った井戸のおかげで村は救われました。ありがとうございます」


 頭を下げる妹に背を向け、鬼は社の階段に腰を下ろした。どうすることもできずに立ち尽くしている私を手招きし、彼女は自分の隣を指差す。招かれるまま、私はその隣に腰掛けた。


「それで、娘よ。用向きはなんだ」


 鬼が妹をじっと見つめる。はらはらする気持ちを抑えて、私は二人を交互に見た。すでに頭を上げていた妹は、ねめつける視線を臆することなく受け止めていた。つり目気味な黒目には、意志の光が灯っている。


「あなたに捧げられた生贄は、私の姉です。どうか、姉と話をさせてください。今日は、そのために来たのです」

「話してなんになるというのだ。まさか、これを連れ戻そうなどと考えてはいないだろうな?」


 金眼が細められる。妹の肩がぴくりと揺れた。図星なのだろうか。私はそっと鬼の袖を掴んだ。


「姉が、戻ってきてくれるのならば、私はその人を連れ戻したい」

「正直だな。おかしな奴め」


 くすくすと笑い声をあげると、鬼は私の腰を掴んで引き寄せる。思いもよらない行動に、私は小さく悲鳴をあげた。


「姉が、と言ったな。お前の姉はすでに山神へ捧げられたものだ。山神ではないが、村の願いを叶えたのはこのおれだ。なれば、この女はおれの所有物となろう。この女が望もうと、望まなかろうと、これのことはおれが決めるのが道理よ。そこにお前の意志も、これの意志もない」

「そ、そんなこと、」

「黙れよ、愚かな人間。お前たちがそう望み、そうしたのだろうが」


 言いながら、鬼は立ち上がって妹の元へと歩いて行く。妹は迫ってくる鬼に、後退りもしなかった。


 鬼が妹の目の前で止まる。


 ざんばら髪の揺れる背中を見ながら、私はごくりと息をのんだ。ここからは、妹の表情も鬼の表情も伺えない。今、二人はどんな顔をして対峙しているのだろうか。


「だが、お前の姉は愚かな人間を美しいと言った。その営みの身勝手さも、醜さも認めた上で、それでも美しいと……お前の姉は言ったのだ」


 風が鬼のざんばら髪を揺らす。ばらばらと散る黒髪の狭間に、妹の見開かれた目が見えた。


 彼女は、一体何を言おうとしているのだろうか。私は脈打つ胸を抑えながら、鬼の元へと駆け出す。


「お前の姉と過ごすうちに、おれはその営みを見届けたいと思った」

「……ナキ様」


 鬼の名を呼ぶ。彼女は振り返らない。


「なあ、澄子。おれは、お前の営みを見届けたいんだ」

「なにを、言っているのですか? ねえ、ナキ様……こっちを見て」

「澄子」


 私の名を鬼が呼ぶ。静かな、凛とした低い声。


「お前は、村に戻れ」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る