3-⑪

 鬼の金眼がこちらを向く。月のように輝く瞳。私が目を細めると、彼女も同じように笑った。


「ひどい顔だな。おれを憐れだと思うか、澄子」

「……いいえ。いいえ、ナキ様」


 白い指が私の頬に触れる。冷たい指先がゆっくりと涙の跡をなぞる。


「おれは人間を、いや、おれに呪いをかけたあの男を憎んでいる。きっと、おれはあの男を心の底から愛していたのだ。彼の命が尽きるまで、鬼であることを隠し、共に人として生きてもいいと思うほどに」


 鬼は淡々と語る。その声音はいつものように低く、凛としていて、何の感情も持っていないようだった。


「彼のためなら、人を食わなくたっていいと思っていた。味のしない人の食い物を食い、うまいと微笑むことだって厭わないと思っていた。それなのに、彼の選んだ道はおれとは違った。おれは鬼のまま、彼に寄り添いたいと思っていたのに、彼はおれに人として、人になって、寄り添ってほしいと思っていた」


 その思いは彼を欲のままに突き動かし、結果として鬼に永い孤独を与えた。私は知らないうちに唇を噛んでいた。それは鬼を傷つけた男に対する憤りなのか、淡々と過去を語る鬼に対する何かなのか、私にはわからなかった。


「彼を喰ったとき、おれが絶望したのは人の味を感じることができなくなったことに対してではないのだ。愛した男が、鬼であるこのおれを、あるがままのおれを受け入れてくれなかったことに、ただただ絶望していたんだよ」


 ふう、と息を吐く音。鬼の胸が、私の腕の中で上下する。


「たったひとりの男に執着するのを認めたくなくて、人を愚かだと、醜いと憎んだ。……本当は、憎んでいるのはただひとりだけなんだ」


 噛みしめるような声に、私は小さく嗚咽を漏らした。鬼の体を抱きしめて、子どものように泣きじゃくる。


「あんまりです。あんまりだわ……! あなたは、信じていたのに」

「うん。信じていたよ。彼も、人として鬼であるおれを愛している、と」


 幼い子どもをあやすように、鬼が私の背中を撫でた。


「愚かな幻想だった。だが、おれがあの男を愛していたのは真実だ。きっと、今でもおれはあの男への未練を絶ち切れていないのだろうな。だからこうして、人を憎み、嫌っている。本当は、人間ではなくて、あの男だけが憎いのに。……あの男がおれにかけた呪いが、今もなおこうして続いているのがその証なんだ。術者が死ねば呪いは消える。呪いとはそういうものだ。だが、あの男の呪いは消えていない。きっとそれは、おれの中であの男が生きているからだ」


 金眼が自嘲気味に笑う。 


「この身を縛る呪いは、彼の恋情と、おれの未練に他ならない」

「ナキ様……」


 やはり、この鬼は人が好きなのだろう。彼女の心根は、雪を溶かす春の日差しのように優しいものなのだろう。


 手を伸ばしてその頬に触れる。白い肌を伝い落ちていく涙を指先で拭う。


「すまない、澄子。おれはお前を愛しいと思いながらも、かつての愛を捨てられずにいる」


 揺らぐ金色。悲しみと諦めを湛えたそこには、呆然とそれを見つめる私が映っていた。


「私は、ナキ様から愛しいと仰っていただけるだけで、うれしいです。……けど、私だけを、その心に置いてほしいとも、思ってしまっています」

「……うん」

「許せるかどうかは、わかりません。ただ、今は、ナキ様のお傍にいたい……です」


 じっと見つめると、鬼はぱちりと瞬きをする。


「雨が降るまでは?」

「意地の悪い方」


 意地悪く首を傾げるのに頬を膨らませると、彼女は眉を下げて笑った。


「どうか、雨が降っても、ずっと」


 角にかかる前髪をかき分けて、私は晒した額に口づけを落とす。鬼はくっくと笑いを噛み殺しながらそれを受け入れてくれた。


「なあ、澄子。おれがお前の村に井戸を掘ったのはな、お前の心根を暴いてやりたかったからなんだ」

「私の、ですか?」

「うん。お前の自己犠牲を、人を美しいというその心根を、おれはなんとしても否定しなければならなかった。そうでないと、人が美しいものに見えてしまうから。彼を、許してしまいそうだったから」


 言いながら、鬼の両腕が私の背中にまわる。そのままぎゅっと抱きしめられて、今度は私が鬼の胸に鼻先を埋めることになった。


「お前を見ていれば、人の営みを美しいと思えれば、この呪い――いいや、おれの未練も、許せる気がする。なあ、澄子。教えてくれないか。おれに人の営みを、その美しさを」


 息が、止まるような心地だった。


 視界がぱちぱちと明滅して、まるで目の前で火花が散っているようだ。私は高鳴る胸を隠すことなく、鬼に抱き着く。


「ええ。ええ、もちろんです」


 答える声は震えていた。視界は滲んでいて、何も見えない。かわりに私は鬼の香りを胸いっぱいに吸い込む。甘い香と、獣の匂い。


 雨が降るまでなんて、と私は心の中で笑った。雨が降っても、ずっと、鬼の傍にいたい。それこそ、この命が尽きるまで。いいえ、この命が尽きても、ずっと。


 この鬼のためならば、私は人であることを捨てても構わない。

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