3-⑩

 おれが老女の姿になったのは、それきりだ。いつもの姿でいる方が、男の精神はいくらか落ち着いていた。けれど、一度壊れた彼の心は、決して元に戻ることはなかった。


 その日から、彼はぼそぼそと何か呟きながら書き物に耽るようになった。覗き込んでも、おれには何を書いているのかさっぱりわからなかった。時折どこかへふらりと出かけることはあったが、それ以外はいつも文台に向かっていたと思う。飲み食いもせず、よく生きていられたものだと思うよ。おれが話しかけても、ひどく嫌そうな顔をするか、聞こえなかったかのように無視するかだった。おれはなるべくその視界に入らないように、家のあちこちを掃除して過ごした。何か作業をしている間は、彼のことを考えずにすんだのも良かった。


 雨の日だった。その日、男は朝からどこかへ出かけていた。おれはばしゃばしゃと屋根を打つ雨の音を聞きながらその帰りを待っていた。


 男は真夜中になってやっと帰ってきた。彼が丸一日家を空けることは珍しかったから、おれは何かあったのかと玄関まで出迎えに行った。彼は傘を差していなかったようで、上から下までずぶ濡れだった。狩衣の裾から雨粒が滴るのを拭こうともせず、男はおれをじっと見つめていた。ぞっとしたよ。初めて、人間に対して恐怖心というものを持った。久しぶりに見た男の目は、夜の闇よりも暗かったから。


「鬼よ、俺はお前が愛しい。どうか、俺の望みをきいてくれ」


 暗い瞳のまま、彼はおれを抱きしめた。ぐっしょりと濡れた着物が体に纏わりつく感触が不愉快で、おれはその腕から逃れようと藻掻いた。その時にやっと、彼の手に一枚の札が握られているのに気づいたのだ。


 しわだらけの紙きれ。それがおれにはどうしようもなく恐ろしく思えた。


「俺は、お前を美しいまま残していくのが、恐ろしい」


 一層強く藻掻くおれを組み敷きながら、男はうっとりと笑っていた。場違いなほど恍惚とした微笑みが気持ち悪くて、おれはなりふり構わず逃げようとした。このおれが、人間相手にだ。


 逃げるおれの足を掴みながら、男は何かを唱えていた。まるで地獄の底から響くような低い声だった。いいや、あれを声と言っていいものかもわからない。地鳴りのような、底冷えする風のような、とにかく、恐ろしい音だった。その音は見えない何かを伴っておれに纏わりついてきた。


 濡れた着物と似たような感触だったと思う。じっとりと湿った、冷たい何かが、身体中に纏わりついて、皮を浸して肉まで届いていく感触。おぞましかった。最悪だった。気づけば、おれは獣のように咆哮していた。隠していたはずの爪で、牙で――彼の体を引き裂いていた。


 それでも、彼は笑っていたよ。全身から血を吹き出して、息も絶え絶えになりながらも、笑っていた。


 おぞましく、醜悪に、満足そうに、笑っていたよ。


 おれはというと、狂気と正気のちょうど中間くらいの心地にいたと思う。彼を傷つけてしまったという後悔と、久しぶりの血の匂いからくる高揚。その狭間で、おれは男に「何をした」と問いかけた。


「これでいい。これでいいんだ、鬼よ。俺の血を舐めてみればいい。そうすれば、すべてわかる。はは、は」


 彼は笑っていた。部屋中に男の哄笑が響いていた。男の狂気にのまれかけていたおれは、彼の言うとおり自分の爪についた血を舐めてみた。そこでやっと、おれは正気に戻ったのだ。いや、もしかしたら、今度こそ狂気に落ちたのかもしれない。血まみれの己のてのひらと、同じく血まみれの男を見比べて、おれはまた咆哮した。


 おれの舌は血の味を感じることができなかった。どんな酒よりもうまかった筈の人の血は、なんの悦びもおれに与えなかった。「なぜ、こんなことを」と問いかければ、彼はひどく真剣なまなざしで言った。「お前を愛しているからだ」と。


「人の血肉を絶てば、鬼は人になると聞いた。この術は、鬼が人を喰わなくなる術だと、聞いた。これで、お前は、人として、俺と同じように、老いて、死ぬ。ははは。はは。鬼よ、俺が、お前の最後の男だ。俺がこそが、お前が最後に喰らう男だ。はは、ははは」


 次第に力を失くしていく笑い声を聞きながら、おれは泣いた。


 男は結局、鬼であるおれを受け入れてはくれなかったのだ。おれは鬼であるまま、人間である彼を愛した。おれは彼が鬼になることを望んだことなどなかった。彼が死んだ後も、おれは彼だけのものでいるつもりだったから。


 結局、彼は、おれを信じてなどなかったのだ。


「おれはお前のために、おれの意志で鬼であることを捨てたぞ。牙を隠し、爪を隠し、角を隠したぞ。こんな呪いなどなくとも、おれは人を喰わなかったのだぞ。おれはお前と共に過ごすと決めてから数十年、人など喰っておらぬ。人を喰わぬだけで、鬼が人になれるのならば、おれはもうとっくに人になっているよ」


 そう言うと、男の哄笑は止まった。暗い目に光が宿ったのを確かに見てから、おれは彼にとどめを刺した。


 おれは泣きながら、男の血肉を貪ったよ。味はしなかった。吐き出しそうになるのを堪えて、おれは男の体すべてを喰らった。


 茫然自失のまま、おれは狐の元へ向かった。その場所にはいたくなかったし、何より一人の心細さに耐えきれなかった。その時のおれが頼れるものは、彼女くらいしかいなかったのだ。


「なんてかわいそうな鬼御前。そうだ、京を離れればいい。静かないい山を知っている。しばらくそこにいるといいさ」


 男の返り血を浴びたままのおれを抱きしめて、狐は笑っていた。


  ◆


「男を喰った後のことは、よく覚えていない。彼の言葉が信じられなくて、二、三人の人間を捕らえて喰ったのは覚えている。……最後に喰ったのが、あの男になるのも嫌だったからな。それからしばらくして、葦姫に言われるがまま、都からこの山に移ったんだ」


 語り終わった鬼は、ひとつだけ長いため息をついた。


 私はたまらない気持ちで鬼の体を抱きしめた。胸元にある彼女の頭をかき抱いて、そのざんばら髪に鼻先を埋める。涙が止まらない。私が泣いたところで、鬼の呪いやその悲しみが癒えるわけではないけれど、とにかく今はこの鬼のために泣きたかった。

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