3-⑨

 山の社に戻ってきたのは夜明けの直前くらいだった。いつものように鳥居の上に一度降りた鬼は、私を抱きかかえたまま社の中へ入っていく。そのままむしろの上に寝転んで、彼女は私をぎゅうと抱きしめた。湯で火照ったお互いの体がどうしようもなく熱い。


「夜が明けるまででいい。こうしていよう」

「ナキ様?」

「お前は眠ってもいいから」


 どこか縋るような声音で低い声が囁く。私はその背中に腕をまわしてそっと抱きしめ返した。むしろの下に敷いた稲わらの匂いが広がる中、鬼の香りも混ざって、不思議な心地だった。


「眠るなんて、なんだかもったいないです。そうだ、ナキ様、私とお話しましょう。眠ってしまわないように」


 どうしてそう思ったのかはよくわからない。けれど、その時は彼女を一人にしたくないと思った。その体温をずっと感じていたいと思った。だから、私はまるで幼い子どものように鬼との会話をねだったのだ。


 鬼は少しだけ考えるように目を伏せると「そうだな」と呟いた。


「……ひとつ昔話を、聞いてくれないか」

「昔話、ですか?」


 首を傾げると、彼女は眉を下げながら笑って、私の胸に鼻先を埋めてくる。


「ああ。愚かな鬼と、愚かな人間の話だ」


 そのまま鬼は小さな声で言った。


 この鬼は、私に自分のことを話そうとしていくれているのだ。私は静かに息をのんで頷いた。


「聞かせてください」

「……あまり、楽しい話ではないぞ。聞いてから文句を言うなよ」

「ふふ、言いませんよ」


 思わず笑うと、鬼の肩がわずかに揺れた。彼女も笑ったのだ。


 それから、彼女はぽつりぽつりと話始める。


 ――それは、鬼が京の都にいた頃の話。私が産まれるずっとずっと前の、彼女の過去。


  ◆


 その男がおれの前に現れたのは、ちょうど人を喰うことに快楽を見出していた頃だったと思う。


 男は、自分は陰陽師であると名乗り、人喰い鬼であるおれを退治しに来たのだと言った。すでに多くの人間を喰らい、十分すぎるほど力をつけていたおれは、彼を鼻で笑って返り討ちにしてやったよ。力なく倒れている男を喰らってやろうとしたときに、彼は初めておれをまじまじと見て言ったのだ。


「お前は、きれいな眼をしているのだな」


 息も絶え絶えの様子で、最期の言葉になるかもしれないのがそれか、と。今のおれならばそう呆れるのだろう。けれど、あの頃のおれは違った。


 きれいだなどと、初めて言われたんだ。まるで、雷がこの身に向かって落ちてきたのかと思った。それほどまでに、彼の言葉はおれの心を揺さぶった。おれは思わず男を置き去りにして逃げた。そうだ、おれは逃げたのだ。自分の命を狙ってきた人間に、とどめも刺さずに逃げた。


 それから、男はおれにつきまとうようになった。おれが人を襲おうとしたときは止めに入ってきたし、おれが何もせずぼんやりしているときは隣で同じように佇んでいた。おれが戯れに話しかけてやれば、それはそれは嬉しそうに会話に興じていた。初めは煩わしいだけだった。けれど、こちらがいくら邪険に扱おうと男はおれの傍にいようとしたし、時折男が話す人の世の話はおれにとって新鮮で面白かった。次第におれは男と共にいることが心地良くなって、それが人を喰らう快楽に勝った。


 おれは、人に化けて男の妻として共に暮らすことを選んだ。牙を、爪を、角を隠して人の姿を取った。もちろん、この瞳も人と同じ色にした。ただ、彼が望むときはこっそりと見せてやったりした。


 幸せ、というのはあの頃のことを言うのだろうな。満たされていたよ。人として、人と共に暮らすのは楽しかった。彼と共に生きるのは、心地良かった。


 あまり、長続きはしなかったがな。


 人とは老いるものだ。彼は冬を越す度に老い、衰えていった。彼だけじゃない。向かいに住んでいた爺はすぐに死んでしまったし、隣の娘もすぐに嫁に行って子をなした。人に化けているおれだけが、何も変わらなかった。そんなおれを見る男の目は、次第に初めて会った日と同じ、化け物を見るものに戻っていったよ。


「お前だけが、美しく、力強いままなのだな。俺はもう、呪術を使うことも、占術をすることもままならんというのに」


 よろけた体を支えたとき、男がおれを見ながら言った言葉だ。その声には、負い目だとか、嫉妬だとか、悲しみが混ざっていたと思う。その頃から、彼は笑わなくなった。飯も喰わなくなった。死にたがっていたんだろう。


 おれは愚かにも、あの狐を頼ったよ。どうすればあの男を元気づけられるか、どうすればあの男に生きてもらえるか。おれは狐に教えを乞うた。きっとその時のおれは、狐の目を十分に愉しませただろうな。あの狐好みの、無様で憐れな、愛らしい幼子に見えただろうさ。


 狐はおれに、老女に化けると良いと言った。きっと、男はおれに自分と一緒に年を取ってほしいのだろう、自分と同じように醜く老い衰えてほしいのだろう、と。おれはそれに従ったよ。ああ、本当に、なんて愚かだったのだろうな。


 年老いた姿のおれを見た瞬間、男は泣いた。


「ああ、鬼よ。やはり、お前は鬼なのだな。俺とは違う、人外のものなのだな」


 そう言って、彼は獣のように泣いていたよ。

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