閑話③

 竜巻の吹いた後のようだと、少女は異形の去った跡を呆然と眺めた。先ほどまで姉のいた場所には、まるで落雷が直撃したような跡がうっすらと残っている。


「あれは……鬼?」


 一瞬だけ現れた女の姿を思い出し、背筋が粟立つ。夜明け前の薄暗い中だったけれど、彼女の額からは確かに角が生えていた。闇の中で金色の目が爛々と輝いていた。あれが村を救った山の神だというのだろうか。少女は自分の体を抱きしめるように身を縮める。恐ろしいと思った。それに姉が連れ去られたということに気づいて、さらにぞっとした。


 ふう、と隣で短く息を吐く音に、少女はびくりと肩を揺らす。隣には先ほどまで姉と一緒にいた少年が立っていた。そういえば、この少年は一体どこから現れたのだろうか。姉と会った時、その傍らには山犬しかいなかったはずだ。横顔を伺うと、まるでこちらの思惑などわかっているというかのように新緑色の瞳がこちらを向く。異形の瞳に、この少年も人外のものなのだと少女は直感した。


「さて、涼子。落ち着かないところ悪いんだけど、あまり時間はないんだ。僕の質問に答えてくれるかい?」


 にこりと微笑み、少年が少女の前に立つ。初対面のはずなのに、自分の名前をなぜ知っているのだろうか。そんな疑問よりも、その齢の子どもにしてはやけに大人びた微笑が、少女には不気味に思えた。


「井戸の幽霊の話は、いったい誰から聞いたんだい? 君は、あの人って言っていたけど」

「あ、えっと……」


 あの人。そう、私はあの人から井戸の幽霊の話を聞いたのだ。少女は脳裏にひとりの尼僧の姿を思い浮かべる。


「水が湧いてしばらくしてから、村にひとりの尼さんがやってきたんだ。日照りの話を聞いて、居ても立っても居られなくなったって言って……」


 その尼僧は、修行のため全国各地を旅しているらしい。彼女はとある町で村を襲った日照りの話を聞き、苦しむ村人たちの力になれればと思ってやってきたのだと言った。透きとおるような肌と、涼し気な目元をした美しい女性だった。尼僧というにはどこか危うげな、妖艶な雰囲気で微笑む女性だった。


 彼女は村人たちに旅先で得た知恵を授けた。その知恵の中には、井戸の作り方も含まれていた。最初は不審がった村人たちだったが、聡明で優しく、村のために心を砕く尼僧に対して、次第にその心を許すようになった。きっと、彼らは失った少女の姿をあの尼僧に重ねていたのだろう。


 井戸で幽霊を見たと言い出したのは、その尼僧だった。井戸屋形が建って間もない頃だったと少女は記憶している。彼女は深夜、少女と山犬が井戸から水を汲み、山へ帰っていくのを見たのだと言った。それを聞いた村人たちは青ざめ、ある者は肩を落とし、ある者は涙を流しながら尼僧にすべてを打ち明けた。尼僧は村人たちから生贄の話を聞くと、その心を大層痛めてくれた。村人たちと共に涙を流しながら彼らを慰め、その心を癒すために静かに経を上げてくれた。


 少年は少女の話をひと通り聞き終えると、深く長いため息をついた。びくりと肩を震わせる少女に、彼は「怒ってるんじゃあないよ」と困ったように眉を下げる。


「それで、君はその尼僧と仲良かったの?」

「う、うん。生贄になったのが私の姉だって知ってからは、よく話しかけてくれたよ。あたしだけじゃなくて、父さんと母さんにもよくしてくれた。母さんは姉さんがいなくなってから体を壊しちゃってて、よく効く薬なんかもわけてくれたんだ」

「なるほどね。お母さんの具合は?」

「よくなったよ。今はもう歩けるくらいになった」

「そっか。良かったね」


 ほっとしたように言い、少年は一度口を閉ざす。言いづらそうに顔を歪ませながら、彼は少女に向き直った。


「信じられないだろうけど、きっと、その尼僧が君を化かした狐だよ」

「……そっか」


 やっぱり、か。少女は半ば予想していた少年の言葉に、静かに頷く。意外そうに瞬きをする少年に、少女は力なく笑った。


「あなたに話しながら、そうなのかなって思ってた。思い出したの。ここに来る前、あたし、あの人と話してるんだ。あの人が、井戸の幽霊はあなたの姉さんかもしれないって教えてくれたの。それで、あの人の目を見ているうちに、なんだか落ち着かなくなって……ここまで来たんだ。でも、おかしいんだよ」

「おかしいって、何が?」

「あの人の顔も名前も、もう思い出せないの。さっきまで会ってたのに、だよ? きれいな人だったのは覚えてる。それこそ、姉さんと同じくらい美人だった。でも、もう道ですれ違ってもわからないと思う。名前だって、確かに呼んでいた筈なのに、なんていう名前だったのか思い出せないんだ。……こんなの、おかしい」


 まさに、狐に包まれた心地だった。実際、化かされているのだから笑ってしまう。


「不思議。こんなことってあるんだね。あなたも、人じゃないんでしょ?」

「まあね。僕たちが怖い?」


 首を傾げる少年に、少女はゆっくりと首を振る。先ほどまではあれほど恐ろしいと思っていた異形のものが、今ではそれほど恐ろしいとは思わなかった。


「今は平気。ねえ、あの鬼と、姉さんは仲良しなの?」

「仲良し……なのかなあ。まあ、仲良し、かな」

「はは。何それ」


 少女と少年は目を合わせてくすくすと笑い合う。こんなにも穏やかな時を過ごせる者を、どうして恐ろしいと思えようか。そうだ、あの尼僧だってそうだった。化かされていたというのに、少女はあの尼僧を――狐を憎む気にはなれなかった。姉に対する気持ちを暴かれたのは事実だけれど、そのおかげで姉にも会えたし、気持ちの整理もついた気がする。


「……澄子を、迎えに来るのかい?」


 笑いながら少年が尋ねた。きっと、彼はこちらの思惑などわかっているのだろう。少女も笑いながら頷く。


「姉さんの気持ちが、聞きたいの。それに、あの鬼の気持ちも」

「そう。気をつけておいでよ、涼子」


 静かに踵を返すと、少年はゆっくりと山に向かって歩き出した。


 山の頂上はすでに橙色に染まっていて、もう夜が明けるのかと少女はため息をつく。ひと眠りしたら、山に登ろう。姉を迎えに行こう。例え連れ帰れずとも、別れだけは告げに行こう。


 最後に少年に声をかけようと、少女は山へ向かう道を見た。しかし、そこには一匹の山犬しかいない。少年と同じ色の瞳をした山犬はちらりとこちらを見ると、ひとつだけ鳴いて山に向かって駆け出した。

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