3-⑧

 一等高い杉の上に降り立つと、鬼は「ここだ」と囁く。


 枝伝いに地面へ降りると、そこは開けた岩場だった。鬼のいう『いいところ』とは、名嘉山なきやまの山頂らしい。ごつごつとした岩場には膝ほどの長さの草と数本の木が生えていて、山頂に吹き込む夏の夜風がそれらを穏やかに揺らしている。寂しい印象ではあるけれど、どこか落ち着くような、不思議な景色だ。


「見ろ、澄子。これがおれのお気に入りだ」


 言いながら、鬼は先ほど降りたばかりの杉の木を指差す。


 改めて見上げて、私はこの杉の木がとんでもない巨木であることに気づいた。夜空に向かって真っ直ぐ伸びた幹は、大人が数人で囲っても追いつかないほど太い。


「この杉の枝に腰掛けて、麓の景色を見るのが好きなんだ」


 杉の木から鬼へ視線を移す。鬼は子どものような目で杉を見上げていた。細められた金眼が月のように揺れている。


「ここを教えたのは、お前が初めてだよ」


 穏やかに細められた金色が私を見る。私が初めて。それは、あの狐も知らないということだろうか。無意識に高鳴ってしまう胸をそっと抑える。


「おいで」


 白いてのひらが差し出される。その上に自分の手を乗せると、そっと包み込むように握ってくる。


 手を引かれるまま、大きな岩が転がる方へ歩いて行く。少し先の方で白いもやが立つのが見えた。


「すごい……!」


 靄の正体がわかり、私は歓喜の声を上げた。もくもくと立ち上がる白い靄の下では、岩に囲まれるようにして温泉が湧きあがっていた。広さは山の社と同じくらいだろうか。白く濁った湯の上に煌々と輝く月が浮かんでいる。靄の正体は、この温泉の湯気だったのだ。


「こんなところに温泉があったなんて……! ナキ様が見つけたのですか?」

「うん。この山に来たばかりの頃、偶然な。そこまで喜ぶとは思わなかった。なによりだ」


 隣に立つ鬼を見ると、彼女はくっと笑い声を噛み殺しているところだった。はしゃぎすぎたかもしれない。恥ずかしくなって俯くと、繋いでいた手がするりと離れる。


 白い手を追って顔を上げるのと、衣擦れの音が聞こえたのは同時だった。


「ナ、ナキ様……?」


 問いかける私の声と共に、緋色に銀糸で鞠の刺繍が施された帯が地に落ちる。月明りの下、鬼は私に背を向けながら温泉の前に立っていた。帯を失くした着物がするすると彼女の肩から落ちていく。背中があらわになる。ざんばら髪越しにちらつく白い肌に眩暈がした。


「なんだ、入らんのか」


 立ち尽くす私を振り返ると、鬼はきょとんと首を傾げてみせる。


「よ、よろしいのですか……?」

「よろしくなければ連れてなどこない」


 呆れたように言う声に観念して、私はもたもたと着物を脱いでいく。やっとの思いで脱ぎ終わった頃には、すでに鬼は湯舟に浸かっていた。こちらに気づいたのか、金眼がきろりと私に向けられる。


「澄子」


 湯に濡れたてのひらが私を呼んで上下する。赤い爪の先から落ちた雫が、ちゃぷんと音をたてて湯舟に落ちた。恐る恐るその手を取ると、優しく湯の中へと引き込まれる。じんわりとした温かさに息を吐きながら体を沈めていく。水の跳ねる音がしてそちらを見ると、雑に結い上げられた鬼のざんばら髪がひと房だけ湯舟に落ちるところだった。


 私たちは隅の方に落ち着くと、温泉を囲う岩に体を預けながらため息をついた。雫がひとつ、鬼の白い首筋を伝って湯へ落ちた。


 ふと、目の前の水面に月が揺れているのに気づいて、私は空を見上げてみる。


「きれい……」


 視界いっぱいに広がる星空に、思わず声を漏らした。夜明けが近いせいで、群青から紫を挟み、橙色に変化していく空の色も美しい。


「美しいだろう? ここから見る星は一等いい」

「はい……。とても、きれいです」


 うっとりと言う私に、鬼は得意げに角を撫でる。


「なあ、澄子」


 呼びかけられて、私は鬼を見る。湯に浸かっているせいか、いつもより少しだけ血色のいい頬にどきりとした。


「ここは、おれの一等気に入っている場所だ。葦姫にも、教えていない」


 鬼の濡れた手が私の頬を撫でる。


「お前が初めてなんだ。この景色を共に見たいと思ったのは」

「ナキ様……」

「おれは、お前を好いているよ」


 目の前で金色の瞳がきらめく。ゆっくりと近づいてくる花のかんばせに、身動きが取れない。


 鬼のざんばら髪が視界の端ではらりと落ちた。


「……いやか?」


 唇に鬼の吐息が当たる。


 どうしようもなく熱い。


 滲む視界の中で彼女の金色だけがきらきらと輝いていた。


「いやじゃ、ないです」


 私の吐息も、彼女の唇に当たっているのだろうか。そう考えるとぞくぞくと背筋が震える。


 長いまつ毛に隠される金眼。かさついた唇が、私の唇と重なる。


 それはすぐに離れて行ってしまって、私はぼうっと鬼の紅い唇を見つめた。


 耳の奥でどくどくと血潮の巡る音がする。ぐるりと視界が回るような気がして、私は頬に触れる鬼の手に縋りついた。


「うれしい……私、うれしいです、ナキ様」


 震える声で囁けば、鬼は眉を下げて笑う。


「本当に物好きな女だよ、お前は」

「そんなことありません」


 むっとして顔を上げると、思いの外近くにあったかんばせに赤面してしまう。鬼はくっくっと笑うと、私の頬に口づけた。


「ああ、いい気分だ。こんな気持ちは久しぶりだ」


 普段は凛としている低音が、今日は浮かれたような響きを滲ませて言う。鬼の声は歌声のような軽やかさで夏の夜に響いていた。


「ありがとう、澄子。お前に会えて、良かった」


 囁くように耳元に落とされた言葉。うれしいはずのそれは、けれどどこか憂いを孕んでいて、私はぎゅっと胸を締め付けられるような気持ちになった。

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