4-④
徐々に色を濃くしていく夕陽を見つめていると、かたりと音をたてて背後の雨戸が開いた。振り向けば、父がこちらに出てくるところだった。
「澄子、もうすぐ日が暮れる。家に入りなさい」
言葉の途中で、その目が私の膝上で眠る山犬に向けられる。不思議そうに首を傾げるのに簡単な経緯を説明すると、父は複雑そうな表情で唸った。
「そうか、この山犬がお前を……」
「うん。ねえ、父さん。この子の世話をうちでできないかしら」
勢いで連れて帰ってきてしまったけれど、私はまだ家族にこの山犬のことを知らせていなかった。なんとか一緒にいたくて、私は父をじっと見つめる。
突然のお願いに、父は顎に指をかけて黙り込んでしまう。その視線は未だに山犬に向かっていた。山犬を追い出そうとしていた村人たちと同様に、彼の危険性を思案しているのだろうか。抗議しようと口を開きかけたところで、父の視線に感づいたのか山犬の大きな耳が揺れた。むくりと肢体を起き上がらせ、新緑色の瞳が父を見上げる。
どれくらいそうしていただろうか。一人と一匹が見つめ合う時間は、実際は大したことのないのだろうけれど、私にはとんでもなく長いように思えた。父はようやく私を見たかと思うと、「どっこいせ」なんて言いながら隣に腰を下ろす。恐る恐るといった体で、私はその強面な横顔を見た。
「いいだろう。世話はお前がするんだぞ」
「ええ、もちろん! ありがとう、父さん」
微笑みと共に告げられた了承の言葉に、私は思わず手を合わせて喜んだ。笑いながら山犬を抱きしめる。
「すごくうれしい。モモ、これからはずっと一緒よ」
ぎゅうぎゅう抱いても、山犬は嫌がる素振りもせずにぱたぱたと尻尾を振っていた。一緒に喜んでくれているのだろう。
もう一度父にお礼を言おうとそちらを向いたのと、大きな手が私の頭を撫でるのはほぼ同時だった。くしゃりと髪の毛をかき混ぜるように撫でる父の手。雑な感じは否めないけれど、優しい温かさがある。
「なあ澄子。山での暮らしは楽しかったか?」
さりげない口調で問われたそれに、私は肩を揺らした。父の瞳を見つめて「うん」と頷く。
「楽しかった。この子と、もう一人いてね。その方が、あの井戸を掘ってくれたのよ」
「そうか」
「すごく、良くしてもらったの。帰りたくないって思うくらいに」
見つめる黒目が揺れる。「でもね」と私は続けた。
「彼女が、帰れって言ってくれたの。私のためになるからって。今は、帰ってきて良かったって思ってるわ。少しだけ、寂しいけれど」
「……そうか」
小さくため息をついて、父は静かに目を伏せた。
「俺はな、澄子。お前のことを、天女の子だと思っていたんだよ」
「えっ?」
「お前があまりにも良い子だったからさ。清く正しく、美しい子。実のところ、俺はお前を恐ろしいとも思っていた。お前の清廉さは、まるで人でないようだったから。だから、お前が生贄になりたいと打ち明けてくれたとき、俺は内心安堵していたんだ」
ゆっくりと父が面を上げる。薄紫に染まりつつある空を見上げる横顔。そこには私では計り知れない感情が滲んでいるようだった。
「天女があるべきところへ帰ろうとしているのだと、自分に言い聞かせていたよ。しかたないことなんだ、と。……そんな筈はないのに」
強面をくしゃりと歪ませて、父がこちらを見た。
「本当は、薄々気づいていたんだ。お前に無理をさせているということを。お前が良い子をやめたがっていることを。でもどうしようもなくて、お前を手放してしまった。すまなかった。本当に、すまなかったな、澄子」
「……違うよ。私が自分の本当の気持ちを打ち明けられなかったせい。ごめんなさい、父さん。それから、ありがとう。私のことをよく見てくれていて」
言いながら父の傍に寄り添い、私はにこりと微笑む。父はぽかんとこちらを見ていたが、すぐに眉を下げて同じように微笑んでくれた。
「変わったな、澄子。山で共に過ごした人たちが、お前をこうさせたのか?」
「うん。今の私は嫌?」
いたずらっぽく首を傾げると、父は大きな笑い声を上げた。
「ははは、とんでもない。今のお前も、昔のお前も大好きだ。自慢の娘だよ」
「私も父さんが大好きよ。母さんも、涼子も大好き」
しばらく二人で笑い合っていると、後ろの雨戸が開いて妹が顔を覗かせる。つり目がちな目が不機嫌そうに細まって、私たちをじとっと睨みつけた。
「母さんが、姉さんを呼びに行った父さんが戻らないって心配してるよ。もう暗いんだから、二人ともさっさと家に入ってよね。……姉さんがいないと、布団が冷たいの」
それだけ言うと、妹はぴしゃりと雨戸を閉めてしまう。
私と父は顔を見合わせて、にんまりと目を細めた。最後の言葉は小声だったけれど、こちらの耳にはしっかり届いている。雨戸を閉める直前の彼女の耳が真っ赤だったのも見逃さなかった。
「かわいい妹が待ってるから、中に入ろうか」
「ふふ、そうだね。モモはどうする?」
山犬を振り返れば、彼は軒下で再度丸まっているところだった。今日の寝床はそこにするらしい。私は彼の鼻先をくすぐるように撫でながら「おやすみ」と囁く。
雨戸をくぐる直前、私は前を歩く父の袖をそっと引いた。立ち止まってこちらを振り返る父を見上げて、ひとつ深呼吸する。先ほど決めたことを、決意が揺らがないうちに伝えたい。
「あのね、父さん。私、春嗣さんとの婚約を受けようと思うの」
父の黒目がわずかに見開かれる。しかしそれは一瞬のことで、すぐに穏やかに細められた。
「お前がそうと決めたのなら、お前に悔いがないのなら、俺は認めるよ」
「……ありがとう、父さん」
季節は稲穂の黄金が美しい秋の盛り。夜に鳴く虫の声がよく響く頃。私がその人との婚約を決めたのは、ちょうどそんな季節だった。
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