3-⑥

 じっとこちらを見つめる瞳から、私はなんとか目を逸らす。逸らした先、私たちから少し離れたところで、山犬が少年の姿のまま座っているのが見えた。彼はどこか遠い目でこちらを見ている。


「姉さん……?」


 妹の声が伺うように私を呼んだ。それに、私は目を逸らしたまま首を振る。彼女の申し出を受け入れるわけにはいかない。


「私は雨乞いの生贄で、まだ村には雨が降っていない。それなのに、戻れるわけないわ。父さんや母さんに迷惑がかかるもの。涼子、あなたにも」


 言葉を紡いだ声はひどく掠れていた。我ながら情けない。もっと堂々と断ることができればいいのに。


 思わず自嘲した私に、妹は「そんなことない」と強く言い切る。


「井戸ができてから、作物もなんとか採れるようになったよ。みんな、姉さんのおかげだって感謝してる。大きな声では言わないけど、村人たちの中には姉さんに対する行為を悔やむ人もいるの。……老人たちの頭は相変わらず固いけど、迷惑なんてかからない」


 未だに逸らしたままの視線の先に、妹の白い手が映る。それはそっと私の手をとった。繋いだお互いの手は震えていた。


「あとね、春嗣さんが、村の井戸が涸れたときに備えて、町から村へ水を運ぶ準備を進めてくれているんだ。町の近くを流れる大河はこの日照りでも涸れることはなかったから、役に立てるかもしれないって。村の作物に頼りきっていた町も、日照りの被害を受けているからって。春嗣さんはね、姉さんがいなくなったこと、すごく悲しんでたんだよ。でも、これから先、自分と同じ思いをする人がいなくなるようにって、自分にできることをしたいんだって、言ってたよ」


 視界の中に妹が割り込んでくる。涙で輝く黒目が私を見る。


「お願い、姉さん。帰ってきて。姉さんがあたしたちのことを守ってくれたみたいに、今度はあたしたちが、姉さんのことを守るから……」


 震える手に力がこもる。


 妹をやっとの思いで見つめて、私はまた首を振った。


「……できない」


 黒曜石のような瞳から涙がぼろりと零れる。


 もう見ていられなかった。妹の手を振りほどき、私はその体を押しのけて距離を取る。


「井戸を掘ってくれた方と、お約束したの。雨が降るまでは、傍でお仕えするって」


 ああ、私はまた言い訳をしている。


 約束があるから。帰る場所があるから。――本当は、それが一番の理由などではないのに。


「姉さん……!」


 縋るような声を上げる妹に、私は眉を下げながら微笑む。そのまま少年へ視線をやると、彼はしかたないなと言うようにため息をついて見せた。きっと、彼には私の心根などお見通しなのだろう。


 妹の申し出がうれしくなかったわけではない。待ってくれている人があの村にいるというのは幸福なことだ。けれど、村に帰れば、私はまた村人たちの理想の少女に戻らなければならない。待っている人がいるということは、そういうことなのだろう。


「私は山の社に戻るわ。お願い、涼子。ここで私と会ったことは忘れて……どうか、追ってこないで」


 ずるい女だと思う。こうして私を待っていてくれた妹にも、村に帰らない理由にしている鬼にも、申し訳ないと思う。


 私は結局、何も変わっていない。自分勝手で、わがままな、子どものままだ。


「いやだよ、姉さん……」


 すすり泣く声に唇を噛む。妹を見れば、彼女は黒目に燃えるような光を湛えて私を見つめていた。苛烈で美しい妹。彼女の燃える感情の正体を知ってしまっても、やはり私には何もできない。


「忘れるなんて、できるわけないじゃない!」


 妹の叫び声は半ば掠れていた。その喉を裂かんばかりの怒声に、私は一瞬だけ怯んでしまう。


 その隙をついて妹が私に掴みかからんと走り出した刹那、ドンと雷の落ちるような音がして地面が揺れる。舞い上がる土埃の中、私の体を何かが引き寄せる。妹だろうか。拒もうとした瞬間、耳元で引く声が囁く。


「連れていくぞ、澄子」


 鼻孔を掠める甘い香と獣の匂いに、心が震えた気がした。


 土埃のけぶる中でも煌々と燃える黄金色の瞳。ざんばらな黒髪が視界にちらつく。


「ああ、ナキ様……!」


 鬼の名を呼ぶ声は歓喜に震えていた。


 泣きたくなるのを堪えて鬼の着物をぎゅっと握ると、鬼は満足そうに金眼を細める。


「お前はどうする」


 私を抱き上げながら、鬼はいつの間にか傍にいた少年に向かって問いかけた。彼は一瞬だけ考えるように目を伏せるたが、すぐににっこりと微笑む。


「僕はもうちょっとここにいるよ。君は澄子と一緒にいてあげな」

「……ああ」


 端的な返事と共に、たんと鬼が地面を蹴って背の高い木へ飛び上がる。着地してすぐに別の木へ飛び移り、あっと言う間に神社が遠くなった。


 土埃を抜けた先の空は、すでにいくらか紫色に染まっていた。夜明けが近いのだ。妹と井戸で再会してからかなりの時間が経っていたらしい。もしかして、鬼はなかなか帰ってこない私と山犬を心配して、迎えにきてくれたのだろうか。都合の良い考えに甘えていたくて、私はそっと彼女の胸元にすり寄る。


 それをどう思ったのか、鬼は優しく髪を撫でてくれた。細い指が髪をかき混ぜるように撫でていくのが心地良かった。

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