3-⑤

 少年は妹の前に片膝をつくと、その目をじっと見つめた。困惑したように目を瞬かせる妹に、彼は「瞬きはしないで。僕の目を見てて」と硬い声で命じる。有無を言わせないようすに、妹はおずおずと頷いていた。私はそんな二人を見つめることしかできない。


 もごもごと口の中で何かを唱え、少年はふうとため息をつく。


「もう、いいよ」


 言いながら立ち上がり、彼はまだ尻もちをついたままの妹に手を差し伸べた。妹は恐る恐るといったようすでその手を取って、ゆっくりと立ち上がる。


「いいかい、涼子。君は意地の悪い女狐に化かされていたんだ。感情をむりやり暴走させるのが、あの狐のやり方なんだろうね。本当に、嫌なやつだよ」


 吐き捨てるように言うと、少年はちらりと私を見た。彼は私に気づくと、眉を下げて微笑む。その言い分からして、妹は以前社にやってきた狐に操られていたということだろう。先ほど、妹を前にしたときに感じた、心と体をむりやり離れ離れにさせられるような感覚には覚えがあった。あの狐に手招きされたときの感覚と同じだったのだ。


 しかし、狐は一体どうやって妹に近づいたのだろうか。なぜ、こんなことをしたのだろうか。思案する間もなく、その理由はきっと私にあるのだろうと気づく。私を鬼から遠ざけるために妹を利用したのだとしたら、私はまた妹に迷惑をかけてしまったことになる。胸を締めつけられるような気持ちが湧き上がり、私はそっと目を伏せた。


「感情を……? そ、そうだ、あたし、姉さんに……」


 弾かれたように妹が私を見るのと、私が彼女に視線をやるのは同時だった。妹は泣きそうな、縋るような表情をしていた。


「ち、違う。違うの、姉さん……」


 きっと先ほどの少年の表情は、妹がこうなるということを言いたかったのだろう。感情を暴走させるということは、抑え込んでいた本音をむりやり吐き出させるということだ。つまり、先ほどの妹の言葉は隠していた彼女の本音ということになる。私は妹の潤んだ黒目を見つめて笑った。


「いいのよ。わかってる。わかってるから、涼子」

「う、うう……」


 くしゃりと歪む顔は幼い頃と同じだった。歯を食いしばって涙を耐えているのがいじらしくて、私はそっと妹に両手を差し出す。


「おいで」

「……いいの?」

「もちろん」

「――ッ!」


 胸の中に飛び込んでくる妹を抱きしめる。全身でしがみついてくるのが愛しかった。


「ごめんなさい! 姉さん、ごめんなさい……っ!」


 ぼろぼろと涙を流して謝る妹を憐れに思う。きっと、彼女は私に対する気持ちをずっと隠し続けるつもりだったのだろう。それを、こんな形で吐露してしまった。他でもない、私に。それはどんなに切ないことだろう。


「私こそ、ごめんね。あなたのこと、全然わかってなかった」

「違う。違うの、全部あたしが悪いの。あたしが姉さんのこと好きになったから、姉さんのこと避けたから……!」


 自分の気持ちに振り回されて、相手を傷つけてしまう。それは私にも覚えがあった。私があの鬼にしたように、妹も私にそうしてしまったのだ。私のときは、あの鬼が心を砕いてくれたおかげで、誤解を解くことができた。しかし、妹の場合は違う。私は自分を避ける妹から、同じように遠ざかってしまった。私は妹のために心を砕くことができなかった。私たちはお互いに言葉足らずだったのだ。


 泣き続ける妹の背中をそっと撫でる。震える肩越しに、少年の新緑の瞳がこちらをじっと見つめていた。


「――あたし、生贄に選ばれたとき、うれしかったの」


 しゃくり上げていた背中が落ち着いた頃、ふと、妹がまだ嗚咽の混じる声で言った。


「姉さんの代わりだってわかってた。でも、それがうれしかった」

「どうして?」

「姉さんの幸せを、他の誰でもない、あたしが守れるんだって思ったの。それに、生贄になれば、姉さんに対する気持ちに、もう心を揺さぶられることもなくなる。解放されるんだって、思って……」


 その安息すら、私が取り上げたのか。私は眉をしかめる。この顔を見られたくなくて、私は妹の頭の上に顎を乗せた。


「だから、姉さんが生贄になるって言いだしたとき、どうしようもなくなった。守らせても、忘れさせてもくれないのかって。姉さんのこと憎んでないって言ったけど、もしかしたら、その時は憎んでたかもしれない。……ごめん」


 きゅっと妹の手が私の着物を握る。私は「いいのよ」と囁いた。


「姉さんが山へ行ってから、春嗣さんと姉さんのことを話すようになったの」

「そうなの?」

「うん。村の老人たちが、春嗣さんの次の婚約者にあたしをあてたんだ。信じられないよね。でも、あたし、誰でもいいから姉さんのことを話したくて、縁談の席に行ったの。……春嗣さんも、同じだったみたい。だから、よく姉さんとの思い出話をしてた。おかしいでしょ? 縁談の席なのに、あたしも春嗣さんも、姉さんの――お互いが、愛してた、ううん、今もずっと愛している人の話ばかりしてたの」


 言いながら、妹は穏やかに笑う。その笑い声は私の胸を突き刺すように響いた。


「春嗣さんに姉さんのことを話すうちに、気持ちに諦めというか……決着がついたの。あたし、今は姉さんのこと、ちゃんと家族として愛してるよ。それからは、姉さんに対して申し訳ないって気持ちと、姉さんの分も生きなきゃって気持ちで生きてきた」


 もう一度強く私の着物を握りしめて、妹はそっと体を離していく。向き合った妹は、真剣な表情で私を見つめていた。


「でも、井戸の幽霊の話を聞いたとき、いてもたってもいられなくなった」

「涼子……」

「ねえ、姉さん。生きてるのなら、一緒に家に帰ろう? 父さんも母さんも、あたしも……春嗣さんも待ってるよ」


 ざわりと、胸が騒めいた。真摯な光を浮かべる瞳は、私を捉えて離さない。

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