晩夏の章
3-①
燦々と降り注ぐ陽光を手で遮る。赤く透ける手の甲。蜘蛛の巣のように広がる血の流れをぼんやりと眺めていると、山犬が袖をくいっと引っ張った。足元を見れば、火にかけた鍋がお湯を吹き零している。
「あっ」
慌てて火を弱め、私はすっかり柔らかくなってしまった蓮根を皿代わりの葉の上に乗せる。すかさず、山犬が湯気の中に鼻先を突っ込んだ。
ふんふんと鼻を鳴らしている山犬の口元に蓮根を近づけると、何度か匂いを嗅いでからぱくりと食いついた。おいしそうに頭をこくこくと上下させながら飲み込み、山犬は鼻先を私の肩に擦りつけてもうひとつと催促してくる。そういえば、人の姿の時に気に入ったと言っていた。その口元にもう一切れ差し出してやると、彼は嬉しそうに一つ鳴く。
「山の神様に捧げられたものだもの。あなたにも食べてもらわなくちゃね」
本当に捧げるべきなのはこの社の鬼なのだけれど、それは私しか知らない。村人たちは今も、山の神が村を救ったのだと思っている。
この社に来てからもう
供物は、茄子や蓮根といった旬の野菜が多い。その外にも、干したきのこや肉といった保存食、塩や酢、
生贄として死にに来た私が、村人たちの供物で命を繋いでいる。それに後ろめたさを覚えないわけでない。けれど、村を救った張本人である鬼と、山の神の眷属である山犬は、それでいいと言ってくれた。実際、村は一時的ではあるけれど、救われているのだから、と。
食べ終わった山犬が社の扉の方を向いて一つ吠える。そちらに視線を向けると、鬼が社から出てくるところだった。
「なんだそれは」
階段を降りながら、鬼はすんと鼻を鳴らして問いかける。そのしぐさは山犬によく似ていた。この鬼はふとしたときに、普段は見せないかわいらしいしぐさをすることがある。
「焼き茄子と雑炊です」
「違う。その犬の食ったものだ」
「蓮根ですよ。湯がいただけですけど、彼、気に入っているみたいで」
「おれにもよこせ」
隣に座って「あ、」と口を開ける鬼に、私は瞬きをする。なかなか動こうとしない私に、鬼は金目を半分に細めて「なんだ」と言った。
「えっと、いいのですか?」
戸惑いがちに尋ねると、鬼は私の言いたいことを察したのか「ああ」と目を伏せる。
「お前の手からなら、大丈夫だろう」
さらっと言ってのけた鬼は、私を見てまた口を開けた。私はその赤い舌の上に恐る恐る蓮根を乗せる。鬼がゆっくりと唇を閉じた。
この鬼は、かつて人からかけられた呪いのせいで酒以外の味がわからないという。何を食べても土くれの味がすると言っていた口が、私の手からならと安心したようすで物を咀嚼する様は、私の心をどうしようもなく揺さぶった。
「もう少し塩気がほしいな」
しゃくしゃくと咀嚼しながら言うのに、私は思わず吹き出してしまう。山犬用に湯がいただけだから、塩気が足りないと言われてもそうだろうとしか言えない。
「だが味はよくわかるぞ。これは気分がいい」
白い喉が上下する。鬼は赤い唇を少しだけ持ち上げて微笑んだ。どうやら、本当に私の手から食べるものは味がわかるらしい。どういう因果かわからないけれど、彼女にひと時の喜びを与えられるのは気分が良かった。
機嫌良く笑う鬼に微笑み返し、私はぐつぐつと音を立てている雑炊を木で作った匙で掬う。息を吹きかけて熱を逃がし、一口味を見れば懐かしい香りが鼻先をくすぐった。蓮根と干しきのこの雑炊は、母がよく作ってくれたものだ。塩で味をつけただけのそれは、きのこの香りと蓮根の食感が良い。私はこれが小さな頃から大好きだった。作り方はうろ覚えだったけれど、どうやら母のするとおりに作ることができたようだ。
満足感に頷く私の傍らで、鬼が焼き茄子を指先で摘まみ上げる。
「おい、澄子。これは?」
「それは焼き茄子です。少し塩をつけて食べてると美味しいですよ」
鬼から焼き茄子を受け取り、竹の器に入れた塩を振りかける。そっと鬼の口元に差し出すと、彼女は何のためらいもなくぱくりと食いついた。なんだか懐かなかった獣がやっと餌付けを許してくれたときのような気分だ。
「ん……? うん……」
もちもちと顎を動かしながら数回瞬きをして、今度はこくこくと頷く。こくりと飲み込むと、彼女は「あ」とまた食いつく。
「うん、うん」
またしても頷くだけの鬼に、私は笑いながらわかりきっている感想を聞いてみた。
「いかがです?」
「うまいな、これ」
「ふふ、良かった。こちらの雑炊もどうですか?」
「うん……」
匙で掬った雑炊を差し出すと、鬼はそれも口に入れてくれる。素直な鬼の感想と行動がうれしくて、私は胸がぽかぽかと温まるような気持ちになった。
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