3-②

「お前は不思議な女だな」


 食事を終えてから、鬼がぽつりと呟く。片づけをしていた私は、その言葉に振り返って首を傾げた。私の何が不思議だと言うのだろうか。


 からりと晴れた夏の日差しが照らす中、社の前の階段に腰を下ろして鬼は酒を煽っていた。白い喉が大きく動いて酒を飲みくだす。食事をするときの静謐なようすとは大きく異なり、この鬼が酒を飲む姿はなんとも豪快だ。口の端から零れた酒の雫が、ぼたぼたと鬼の着物や木の階段の上に落ちていく。酒を吸った鼠色の夏着物がその色を点々と濃くしている。


 顎を伝う酒を手の甲で拭い、鬼はからりと機嫌よく笑う。酒のせいか、少しだけ蕩けた色をした金眼がこちらを見た。どうやら機嫌がいいらしい。


「お前が来てから、わからんことばかりだ。ずっと酒以外の味がわからなかったのに、お前がくれたものは味がする。うまいとすら思う」


 白い手が手招きをする。私は鬼に誘われるがまま、私はゆっくりとその膝元に近づいた。


 鬼の足元では山犬がのんびりと眠っていた。山犬の近くに腰を下ろして、私は鬼を見上げる。


「まったく、退屈しない女だよ」

「ナキ様……」


 ああ、そんな、愛しいものを見るような顔をしないでほしい。その気になってしまう。蕩けた金眼に、私はそっと唇を噛んだ。


 あの日の告白の答えを、私はまだあなたから聞かされていないのに。


 ――私は、あなたをお慕いしているのです。


 心のままに伝えた言葉に、しばらくの間、鬼は目を大きく見開くだけだった。ゆらゆらと揺らぐ金色の瞳は、まるで水面に浮かぶ月のようだ。手を伸ばしたくなるほど、不安定で美しい。真冬の夜のような沈黙に、私の満たされていた心も揺らぎだす。なぜ、何も言ってくれないの、なんて。


 ふと、鬼の瞳が逸らされた。


「ナキ様……?」


 薄く開いた唇が無意識に鬼を呼ぶ。ぴくりと鬼の肩が跳ねて、ざんばら髪がひと房だけ肩から落ちていった。


 沈黙が痛い。拒まれているのだろうか。そう思ったけれど、私の背中にはまだ鬼の手が触れている。鬼の手が、しっかりと私の背中を掴んで離さないでいてくれている。きっと、拒んでいるわけではない。拒まないでほしい。


「そう、か」


 やっと返ってきた言葉は、それだけだった。


 伏せた金眼は私を映さないまま揺れている。もしかしたら、この鬼は戸惑っているのかもしれない。ふと、私はそんなことを考えた。先ほどまで、彼女は私が自分のことを恐れているのだと思っていた。そんな私が、人間の小娘が、自分に対して思慕を寄せているなんて、きっと思ってもいなかったのだろう。


 なんて、都合の良い考え。私はこっそりと自嘲した。それでも、この単純な心臓は、冷たい沈黙に凍えていた心臓は、少しずつ熱を持ち始めてしまう。どきどきと脈打ち始めてしまう。


 そうだったら、どんなにいいだろうか。


 祈るように目を閉じた刹那、背中に触れていた鬼の手に力がこもる。ぐいっと抱き寄せられて、私は鬼の胸に顔を埋めてしまった。


「ナ、ナキ様?」


 柔らかい布が頬を擦る。私は慌てて、もごもごと鬼を呼んだ。息を吸い込むたびに鬼の匂いがして、頭がくらくらする。


 動揺する私に構うことなく、今度は鬼が私の頭に頬を擦りつけてくる。細い指がさらりと私の髪をかき混ぜる。優しい触れ方にまた心が熱くなった。


「なら、いい」


 低い声が甘やかに囁く。耳をそっとくすぐるその音に、私は小さく体を震わせた。


 目が回りそうで、頭の中はぐちゃぐちゃだ。何も考えられない。


「お前は温かいな、澄子」


 ぎゅっと抱きしめてくる腕。混乱する頭は、鬼の肌は夏だというのにひんやりしているな、なんてくだらないことを思った。


「これが人の体温だったな。……すっかり、忘れていた」


 懐かしむような声に、私は鬼の着物をぎゅっと掴む。


 人喰いだった鬼。他のものを避けるように、たった一人でこの社にいる鬼。人を食べられなくなってから、この鬼はどう過ごしていたのだろうか。都にいた鬼は、どのようにしてこの山へやってきたのだろう。


「ここちいいものだ」


 ひとり言のように呟いた声は、どこか幼く、寂しそうな音をしていた。


 鬼の手がくしゃりと私の髪を撫でる。それと同時に、私を抱きしめていた腕からゆるゆると力が抜けていく。離れていく体温を名残惜しく思いながら顔を上げると、鬼は気まずそうに金眼を逸らした。


「疑って、すまなかった。脅すようなこともした」

「そ、そんな、ナキ様が謝ることではありません。私が勝手に避けていたせいですから」


 思いもよらない鬼からの謝罪に、私は慌てて首を振った。鬼は眉を下げて微笑むと、また私の頭をくしゃりと撫でてくれる。


「ならば、お相子ということだな」


 細められた金色は、いつもと同じ輝きを取り戻していた。私は安堵しながら鬼に微笑み返す。告白の答えをもらえていないことに気づかないまま。


 結局、そのことに気づいたのはその日の夜だった。ざわざわと胸が騒いだけれど、拒まれてはいないということにも同時に気づいて、私はなんとか自分を落ち着かせた。鬼は、私の気持ちを受け入れてくれている。今の私にはそれだけで、十分だった。

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