閑話②

 遠ざかっていく袖を掴み損ねた。森の中へ消えていく少女の後ろ姿を呆然と見つめていると、少年の影が目の前に躍り出てくる。山犬だ。こちらを睨む新緑の瞳を受け止めきれず、鬼はそっと目を逸らした。


「咄嗟に追いかけるくらいのこともできないんなら、あの子に優しくするのやめなよ。君を見てると、たまらなく苛つくんだ」


 吐き捨てるように言って、彼は少女の後を追いかけていった。鬼はそれを見送ることしかできない。まるでそこに根付いてしまったかのように、鬼の体は動かなかった。


 鬼は目を伏せ、震える息を吐く。心細そうに眉を下げていた少女。明らかに自分に恐怖を向けていた少女。それをどうして、追いかけることができようか。


「半端な力しかないくせに生意気なものだ。――殺そうか?」


 じゃり、と砂を踏む音と主に、狐が隣に並ぶ。山犬の消えていった先を見つめて目を細める狐を、鬼は「やめろ」と制した。恐ろしいほど整った横顔を睨みつけ、彼女は言葉を続ける。


「女狐め、あの娘に何を言った? 隠すとろくな目に合わんぞ」

「おや、恐ろしい顔をして。別に何も言っちゃあいないよ」

「嘘をつくな」

「嘘? このアタシが、お前に? お前が嘘を嫌っていることは、アタシが一番良く知っているというのにかい」


 飄々と笑う狐に、鬼は奥歯を噛みしめた。耳の後ろあたりで歯の軋む音がする。顎を引いたところで、狐は困ったように眉を寄せた。わざとらしいしぐさだ。この狐のこういったしぐさが、鬼は昔から気に入らなかった。


「あまりアタシを困らせないでおくれ、かわいい子。本当に、お前のためになることしかしていないさ」


 頬に触れようと伸びてくる手を振り払い、鬼は「どうだか」と鼻を鳴らした。結局、狐の言葉は鬼の問いかけに対する返答になっていない。はぐらかされている。この狐はいつもそうだ。鬼は不機嫌そうに腕を組んだ。


 この狐とはまだ鬼が生まれたばかりの頃――京の都にいた頃からの付き合いだが、鬼は未だにその心根が悪性なのか善性なのか測りかねている。この狐は善も悪もない享楽主義者なのだろうとさえ思うほど、彼女の性質はその時々で移ろうのだ。真綿で包むように守られたこともあれば、優しい言葉で残酷な選択を仕向けられたこともあった。人を喰らえば力を得られることを、生まれたばかりの鬼に教えたのは他でもないこの狐だ。鬼が人を殺し、喰らうさまを彼女は手を叩いて喜びながら眺めていた。


 ただ、彼女が鬼に尽くすことを喜びとしていることは本当らしく、その性質のおかげで鬼が今日まで生きていることも事実だった。己がその欲求を満たしているうちは、この狐が自分に敵意を向けることはないということだけは、鬼もよくわかっている。


「あの娘に手を出すことは、おれのためにはならんぞ。あの娘に手を出していいのは、このおれだけだ」


 低い声で言いながら、鬼はじとりと狐を見つめる。狐も空色の瞳を細め、鬼を見つめていた。


「ああ、わかった、わかった。そんなにあの人間を気に入っているのか」


 しばらく睨み合った後、先に目を逸らしたのは狐だった。口元を派手な柄の袖で隠しながら、狐はくつくつと笑う。


「やかましい。気に入っているわけではない。ただ、傍に置いておきたいだけだ」

「それを気に入っていると言うんだよ」


 ふわりと森からの風が境内に吹き込んでくる。狐の手が風に吹かれる鬼のざんばら髪をそっと撫でる。今度は振り払うことはせず、鬼はそれをただ見ているだけにした。


「なあ、鬼御前」


 狐の手は慈しむように鬼の髪に触れていた。


「今度は手を噛まれるなよ。お前は鬼のくせに愛情の深い子だから、アタシは心配なのさ。人間ごときにお前が傷つけられるのを見るのは、もう嫌だからね」

「……うるさい」


 細い指が髪をいじる感触に鬼は唇を噛んだ。


 今度は、という言葉に、思い出すのは遠い過去。ただ一人の人間と共に暮らした水泡みなわの日々。あの日々はひどく優しかった。優しかった分、与えられた裏切りの苦痛は、今も深くこの身を苛んでいる。


「呪いは、まだ解けぬのか」

「黙れ」


 狐の言葉に、鬼は自分の胸が騒めいていくのを感じていた。不愉快な感情に眉を寄せる。こんなことで心を揺さぶられるなんて。自分の弱さを見せつけられているようだ。


「あの男の執着も、見上げたものだ」

「黙れ!」


 髪を撫でる手を叩き落し、鬼は牙をむいて狐を睨む。怒りに爛々と燃える金眼を、狐は愛しそうに見つめていた。


「過ぎたことだ! 今さら語ったところで、どうなるというのだ!」

「そうだね」


 燃える瞳に怯むことなく、狐は鬼の頭をくしゃりと撫でる。その優しい感触に、鬼は思わず面食らってしまう。徐々に冷静になっていく感情に、鬼は先ほどまでの己の行いを恥じて俯いた。みっともない八つ当たりだ。しかし、種をまいたのは狐なのだから、謝る必要はない。そう自分に言い聞かせて、なんとか口を閉ざす。


「さて、アタシはそろそろお暇するとしよう」

「さっさと行ってしまえ。ああ、酒だけは置いて行けよ」

「なんてつれない。アタシより酒の方が良いんだね。悲しくなってしまうじゃないか」

「やかましい」


 俯いたまま紡がれる憎まれ口に、狐は上機嫌に微笑んだ。


「くふふ。本当に、つれない子。お前のそんなところが好きだよ」


 頭に置かれていた手がするりと頬を撫でる。振り払おうとして鬼が顔を上げると、すでに狐の姿は消えてしまっていた。


 たった一人で境内に立ち尽くし、鬼は少女の消えた森を見つめた。未だに胸は騒めいている。


「澄子……」


 先ほど初めて声にした少女の名前を呼ぶ。穏やかに流れる川のような、美しい名前。その名のとおり、清らかに微笑む少女を脳裏に浮かべる。たまらなく、あの少女に会いたい気分だった。


 鬼はそっと一歩踏み出す。迎えに行ってみようか。


 あの少女は、怯えないだろうか。

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