2-⑫
歓喜に慄く背中を、汗が伝って落ちていく。自分の鼓動が耳の奥で響くせいで、蝉の鳴き声が遠くに聞こえた。
ふと、鬼の肩越しにこちらを心配そうに見ている山犬の姿が映る。大丈夫と言ってやる代わりに微笑んで、私は肩を掴む鬼の手に自分の手を重ねた。鋭く尖った赤い爪が飾る指を撫でると、ぴくりと跳ねるのが愛しい。
「以前、モモと森に出かけた時のことです。彼は私に、あなたを恐れていないのか、と尋ねました」
鬼が怪訝そうに金眼を細める。何の話だと言いたげだ。私はそれに眉を下げて言葉を続けた。
「私は、もう怖くないと答えました。だって、あなたは私の恩人です。村の恩人でもあります。こんなにも美しい手を泥だらけにして、私に水を持ってきてくださった。村に井戸を掘ってくださった。そんなあなたを、私は恐ろしいとはとても思えないのです」
「あれは、お前のためではないと言ったはずだ」
「誰のためでなくとも良いのですよ、ナキ様」
赤い唇が何か言いたそうに開いて、しかしそれはため息だけを吐いて閉じた。私はそのようすを見ながら、以前山犬が、私と鬼が似ていると言っていたのを思い出す。あの時はそんなことないと否定したけれど、今ならなんとなく受け入れられる気がした。
「誰になんと言われようとも、あなたへのこの気持ちが変わることはありません」
短く息をのむ音。鬼は食い入るように私を見つめている。きらきら揺れる金色に、私は「それに、」と笑って続けた。
「ナキ様は勘違いをされています。あの日、
「勘違いだと? ならば、なぜお前はおれを避けていたのだ?」
「避けていたことは、申し訳ありませんでした。これは……その、私の問題なのです」
幼いしぐさで鬼が首を傾げた。私は幼子をあやすようにその手を撫でる。
「私は、ナキ様と葦姫様の関係をうらやんでしまったのです。お二人があまりにも親しそうにお話されていたので。ナキ様はお気づきでないと思いますが、あの時のあなたは、私が見たこともないような、安らいだ表情をしておられました。それに、彼女が知っていて、私の知らないナキ様がいることに、苦しくなってしまって……」
「あれとは付き合いの長さが違う。そんなこと、当たり前だろう」
鬼は苦い顔で角を撫でる。そういえば、狐は鬼とは
「それは、そうですね。でも、その時の私には我慢ならないことだったのです。ナキ様には、私に知られたくない過去があるのか、なんて邪推までしてしまって。あなたは人間である私に、人喰いであったことを打ち明けてくださったのに」
揺れる金眼を見つめ、私は鬼の胸に頬を寄せた。鬼は拒むことなく私を受け入れてくれる。絹のさらりとした感触が心地いい。
「親し気なお二人を見ていられなくって、森へ飛び出しました。その後モモから、それは葦姫様をうらやましがっていたのだと、教えられました。私は、恋をしているのだと」
ぴくりと鬼の肩が震える。しかし何も言わず、彼女は私の背中に手をまわした。
「私は恋をしたことがありません。そのときはあなたへの気持ちが恋なのか、わからなかったのです。ですが、その日から、ナキ様からもたらされる言葉や触れ合いに、私の体は過剰に反応するようになってしまいました。あなたに見つめられると、胸が苦しくなるのです。わけが、わかりませんでした」
商家の息子との婚約が決まってから、私は恋など一生知らないまま生きていくのだと思っていた。誠実で優しい人柄を持つ彼のことは嫌いではなかったけれど、こんなにも身を焦がすような感情は持たなかった。私にとって、彼に関するすべての事柄は義務でしかなかったからだ。村にとっての理想の少女でいるためには、それでいいとすら思っていた。
それだというのに、この鬼に対してはどうだろうか。彼女の傍にいたいと思ったのは、生贄という役割を立て前にした私の望みだ。その過去を暴きたいという気持ちは、私の身勝手な欲望だ。
こんな感情、今まで持ったことなどなかったのに。
「自分が自分でなくなってしまったようで、怖かった。だから、私はあなたを避けてしまったのです」
言葉を紡ぐうちに、胸のわだかまりがとけていくような感覚を覚える。そうか、私は、私自身の気持ちがわからなくて恐ろしかったのか。だから、必要以上に鬼を避けてしまった。
「私の勝手な感情で、あなたを振り回してしまいました。本当に、申し訳ありません」
鬼の手が私の背中を撫でる。優しく、慰めるような撫で方に、私はほうと息を漏らした。わだかまりの消えた胸に、確かな喜びが広がっていく。こんなことなら、怖がらずに、受け入れてしまえば良かった。そうすれば、この気持ちはこんなにも優しいものをもたらしたのに。
私はそっと顔を上げて、鬼を見つめる。
「……私は、あなたをお慕いしているのです」
静かに見開かれた金色は、ぐらぐらと不安定に揺れている。鬼は動揺していた。私の告白に、ひどく。それすら、私の心を満たしていく。
ああ、これが、恋。なんて、ほの暗く、うつくしい感情なのだろうか。
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