2-⑪
鋭い瞳に射抜かれて、私は言葉をつまらせる。これといった用はない。ただ、この社から、彼女から離れたいだけ。そのまま答えるわけにもいかず、私は助けを求めるように山犬を見る。しかし、彼はのんきに欠伸をしているところだった。どうやら今回は私の味方になってくれないらしい。
「気分転換に……だめでしょうか」
なんとか絞り出した返事はとってつけたようなもので、私は全身から汗が出てくるのを感じた。泳ぐ視線のやり場は見つからず、結局俯くことにする。
じゃりと砂を踏む音。鬼が片膝をついてしゃがみ込む。赤い爪のついた白い手がこちらに伸びてくる。びくりと肩を揺らすと、その手は私の頬に触れる直前で停止した。
「やはり、人食いの鬼は恐ろしいか?」
心地良い低音は、先ほどの刺々しい声とは打って変わり、悲しげな響きを持っていた。私は弾かれたように鬼を見つめる。顔を上げる一瞬、鬼の爪が頬を掠めた。ちりっとした痛みがあったけれど、気になんてしていられない。
むしろ顔を歪めたのは鬼の方だった。彼女は金眼をかっと見開き、食い入るように私の頬を見つめている。
「ナキ様?」
首を傾げる私の頬に、鬼の指がそっと触れる。しかしそれは、頬を一瞬だけ撫でて離れていってしまった。白い指先にはわずかではあるけれど血がついていた。先ほど顔を上げるとき、鬼の爪が皮膚を裂いたのだろう。
鬼は自嘲気味に笑うと、指先の血をぺろりと舐める。
「恐ろしいかなどと、聞くまでもないか。おれは簡単にお前を傷つけられる。お前がおれを避けるのも、無理はない」
「そんなことありません。ナキ様は、」
「ならば、なぜおれを避ける? 村に、戻りたくなったか」
私の言葉を遮り、彼女は早口に問いかけてくる。悲しみと苛立ちをまぜこぜにしたような金色が私を見つめていた。
「お前が村に神社ができたと知らせてきた日から、お前の村を見に行くようになった。穏やかでいい風の吹くところだった。土も、今は涸れかけてはいるが、確かに力強い。村人も逞しく生きていた。……良い村だと思う」
ぴんと跳ねたまつ毛が切なそうに揺れる。静かに目を伏せる鬼に、私は胸を抑えた。
この鬼は、己を恐れている私に苛立っている。私が村に帰りたいと思うことを、悲しんでいる。それはすべて彼女の思い込みなのだけれど、私がその心を動かしていることに間違いはない。彼女の悲しみも、怒りも、他でもない私が湧き起こした感情だと思えば、ただ愛しかった。
――ならば、私はその感情に報いたい。
「それは、違います。ナキ様」
私は鬼の手に触れた。冷たい、陶器のような肌がてのひらに吸いつく。鬼は拒まず、縋るように私を見た。
「私は、村に帰りたいとは思っていません。思えるわけも、ない」
「どういうことだ?」
「……私が生贄としてここに来たのは、自分のためなのです」
金眼がきろりとこちらを向いた。私の心の内を探るような視線。
「まだ赤子だった頃、私はあの村の外れに捨てられていました。私は
「……それが、お前のためなのか」
「それだけではありません。私は……あの村から逃げたかった。あの村で、私は家族の、村の自慢の娘として生きていました。器量よしで、誰にでも優しい、自慢の娘。……その役割に、息苦しさを感じていました」
じわりと視界が滲む。目と目の間が熱い。
「ナキ様、私はひどい女なのです。本来であれば、その役割はきっと、妹が持つべきものでした。愛されるべきだったのは妹だったのでしょう。私は、妹の居場所を奪い、そこを息苦しいと思いながらも手放すことのできない、どっちつかずで、わがままな女なのです」
言いながら、私は自嘲気味に笑った。鬼の手をぎゅっと握るのと同時に、涙が零れる。
「本当の私を、村人たちに知られたくなかった。こんなわがまなな気持ちを知られたら、嫌われてしまったら……孤児の私は、またひとりぼっちになってしまいます。それならいっそ、理想の少女のまま、いなくなってしまいたかった。私にとって、生贄の少女という役割は、飛びついてしまいたくなるほど、魅力的なものでした」
握った鬼の手に頬をすり寄せる。冷たい手。けれど、心地の良い体温。
「だから、私は村に戻りたいなどと、思えるわけもないのです。ナキ様、私はあなたの言うとおり、身勝手な人間なのですよ」
言葉に吐き出してみて、己の心根の醜さと改めて対面して、私は今さらに言わなければよかったと思った。この鬼に報いようと決めたはずの覚悟がぼろぼろと崩れていく。今さら悔やんでも遅いけれど。
私は、この鬼に嫌われたくないのだ。
鬼に触れていた手から力が抜けていく。彼女の手の甲をひっかくようにして、私は自分の手を下ろした。名残惜しかったけれど、払い除けられるよりはましだ。触れるななんて言われて払い落とされでもしたら、私はきっと悲しくてやりきれなくなってしまう。
「それは……身勝手とは違うだろう」
自己嫌悪に苛まれている私に、鬼は呆れたように言った。そのまま彼女は立ち上がり、先ほどまで私が触れていた手でくしゃりと頭を撫でてくる。雑ではあるけれど優しい触れ方は父の撫で方とよく似ていて、私は驚いて鬼を見つめる。その金眼に侮蔑の色はなく、出来の悪い幼子を愛しむ親のように細められていた。
「お前の言い分はわかった。だが、やはりお前がおれを避ける理由がわからん。あの日、おれのいない間に
「それは、」
「なあ、澄子」
鬼はまた私の言葉を遮る。まるで、私の言葉を聞きたくないと言うかのようだった。
「あの女狐がお前に何を吹き込んだか、おれは知らん。知りたくもないし、今さら知ったところで、それがどうなるというわけでもない。それに、所詮は他者の口から語られること。おれの心情が知られたわけでもない」
言いながら、鬼は一瞬だけその瞳を泳がせる。しかし、またすぐに私をじっと見つめた。
ふと、私は自分の頭に乗ったままの手が少しだけ震えていることに気づく。
「だが、それによって、お前がおれを恐れることは許さん。おれの元から逃げることも許さん。他者の語ったおれのせいで、お前がおれから離れるなど……我慢ならん」
この震えは、怒りからくるものなのだろうか。それとも、悲しみか。私が思案している間に、鬼の手は離れていってしまった。名残惜しむように髪を撫でた後、その指は私の肩を掴む。刹那、くしゃりと彼女の顔が歪んだ。
「それは、おれに対する裏切りだ。おれは裏切りが嫌いだ。嘘が嫌いだ。お前は、おれの生き方を美しいと言ったぞ。それをお前が嘘にすることは許さん。そんなことがあれば、おれはお前をどうするか……」
ぐっと近づく歪んだかんばせ。鼻先に鬼の吐息がかかる。
鬼の金眼はひどく曇っていた。今にも泣きだしそうに潤んだ金色。先ほど私に見せた表情とは打って変わり、今度は親に見放された子どものような目だ。
「きっと、おれは、お前を殺して喰らうぞ。例えその血肉が土くれの味しかしなかったとしても、おれはお前を喰らうぞ、澄子」
掠れた、消え入りそうな声で鬼は囁く。その声音とは対照的な恐ろしい意味を孕む言葉に、私の肩は大きく震えた。恐れからくるものではない。これはまさしく、喜びだ。
うつくしい鬼が、花のかんばせを歪ませて、弱々しい声で、私に差し出すもの。それは、まさしく私に向けられる執着だった。
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