2-⑩
気がつくと、私は社の中に寝かされていた。室内は暗く、天井の穴から零れる月明りだけがかろうじて辺りを照らしている。夜になったのだ。そばには鬼も山犬もいない。急に心細くなって、私は静かに社の外へと向かった。
周囲は静まり返っている。時折風が木々を揺らす音がするけれど、それだけだ。私は濡れ縁に出て、きょろきょろと辺りを見回した。境内は煌々と輝く月明りのおかげでよく見える。やはり誰もいない。
鬼がいないのはまだわかる。彼女はしょっちゅう出かけるから。けれど、あの山犬がいないのはどうしてだろう。それに、あの狐は帰ったのだろうか。
ふと、私は足元を見る。少しだけ土に汚れた木目。見慣れた社の床だ。私は森にいたはずなのに、どうやってこの社まで戻ってきたのだろうか。
わからないことが多すぎる。不安だった。
「起きたか」
ざり、と土を踏む音と、聞きなれた低音。弾かれたようにそちらを見ると、森の中から鬼が出てくるところだった。風に揺れるざんばら髪が月明りに透ける。その足元には山犬が付き従うように歩いていた。なんだか珍しい組み合わせだ。
山犬は私に駆け寄ると、足元に鼻先をぐいぐいと擦りつけてくる。その尻尾が機嫌よく揺れているのがかわいい。安堵する気持ちを隠しながら、しゃがんで山犬の頭を撫でてやる。同じように鬼もしゃがむのに気づいて、私は彼女に向かって微笑んだ。
「二人でおでかけをされていたのですね」
「ああ。これを探していた」
鬼の声と共に差し出されたのは山桃の実だった。赤黒い実を四、五個ほどつけた枝が目の前で揺れる。驚いて鬼を見ると、彼女はその金眼を細めて微笑んでいた。どきりと胸が痛む。
差し出されるままにそれを受け取ると、甘い香りがふわりと漂った。途端にぐるると鳴った腹に、私は赤面する。
「食えばいい。お前にやろうとしていたものだ」
「あ、ありがとうございます」
声を押し殺してくつくつと笑う鬼に、私の頬はさらに熱くなる。なんとかお礼を言って一つ口に含むと、甘酸っぱい果汁が口の端から零れた。慌ててそれを拭おうとすると、白い指に顎をすくわれた。鬼の指が私の唇をぐっと拭う。
「血のような色だな」
山桃の汁がついた自分の親指を見つめて、鬼はそれを口元へ持っていった。そのままためらうことなく指先を舐めると、彼女は「ふん」とつまらなそうに鼻を鳴らす。
「機嫌はなおったか」
「え……?」
一連の動作を呆然と眺めていた私は、その問いかけに気の抜けるような声で返事をした。もちろん、それは返事とはいえない代物で、鬼は呆れたように目を細める。ため息をつきながら、彼女は自身の角を撫でた。
「このおれがお前を森まで迎えに行き、ぐっすり寝こけているのを起こさぬよう抱えてここまで運んでやったのだ。加えて食料まで持ってきたぞ。山神の生贄殿は、まだ不機嫌だとのたまうのか?」
鬼がじとりとこちらを睨む。私は慌てて首を振った。
「不機嫌だなんて、そんな……! ナキ様がここまで運んでくださったのですね。ありがとうございます。ご面倒をおかけしました」
「ふん。それでいい」
満足したのか、鬼はにやりと唇を歪めて笑う。機嫌をなおしたのは一体どちらだというのだろうか。そう思いつつも、私は内心の喜びを隠せないでいた。あの夢が本当になったのだ、と。
◆
「今日も掃除をしているのか、澄子」
「は、はいっ」
手作りの箒で境内を掃いていた私は、突然呼びかけられて肩を跳ね上げさせた。振り返れば、鬼が社の扉へ続く階段に腰掛けてこちらを見ている。その足元には山犬が丸まって眠っていた。
「よくもまあ、飽きないものだ」
山犬の横では、軽くはだけた着物から伸びる白い脚がぶらついている。燦々と降り注ぐ陽光が鬼の肌の白さを際立たせていた。思わず目を伏せる私に、彼女は「どうした」と不思議そうに問いかけたけれど、私は首を振って返すことしかできなかった。鬼は怪訝そうに金眼を細め、そっぽを向いて鼻を鳴らした。
狐の来訪から五日ほど経った。鬼への恋情を自覚してから、私の彼女に対する挙動は著しく不信なものになっていた。鬼の一挙手一投足に、つい落ち着かなくなってしまう。その低い声で呼びかけられれば心臓が踊り、白い手で触れられれば肩が跳ねる。なんとかしたい気持ちはあるけれど、心よりも先に体が動いてしまうのだからどうしようもない。
私の態度に鬼も思うところがあるようで、時折こうして用もなく呼びかけては、こちらの反応を見て不機嫌になっていた。なぜあちらが不機嫌になるのだろうか。無礼なことをしているとは思うけれど、今さら彼女がそんなことに腹を立てるとは思えない。山犬に相談してみても、彼は「知らない。鬼に聞きなよ。ていうか澄子が普通にすればいいんじゃないの?」とこちらも不機嫌そうに返すものだから、私はどうしたものかと困り果てていた。
普通にできるものならとっくにしている。降り注ぐ陽光を腕で遮り、私はこっそりとため息をついた。
ちらりと鬼を盗み見る。そっぽを向いたままの横顔に、ため息をまた一つ。不機嫌ならば無理に居座らなくてもいいのに。恨めしく思いながらも、不機嫌そうに酒を煽る横顔すら恐ろしく整っていて、私はまた胸を踊らせてしまう。
あれほど頻繁に出かけていた鬼だったが、最近は以前よりも外出をしなくなった気がする。代わりに、私の方が用もなく村の井戸へ出かけたり、森へ木の実を探しに行ったりと社に寄りつかないようになっていた。鬼と顔を合わせないようにするためだ。そんな私に、山犬は「用もなく村に行くのはやめなよ。見つかったらまずいんでしょ」と呆れたように目を細めていた。
境内の落ち葉をある程度集めてから、私はぐっと背伸びをする。今日の掃除はここまでにしよう。鬼の不機嫌そうな圧にもそろそろ耐えきれなくなった。
「森にでも行こうかしら」
呟いた声に、鬼の足元にいた山犬の耳がぴくりと揺れる。くあと欠伸をしながら近寄ってくるのに、私は思わず微笑んだ。
「一緒に来てくれるの? ありがとう」
しゃがんで山犬を撫でていると、その向こうに見えた裸足に手が止まる。鬼の足だ。鬼がこちらに来ている。私は恐る恐る彼女を見上げて、ひゅうっと息をのんだ。
「食料はまだあるだろう。何をしに行くというのだ」
問いかける声は刺々しい。見上げた鬼は、その金眼に苛立ちを湛えていた。
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