2-⑨
森の中をとぼとぼと歩く。自分で飛び出したくせに、なぜか道に迷ったような心細さがあった。私は手ごろな木に背を預け、そのまま地面に腰を下ろす。木々の隙間から零れてくる陽の光を見上げて、どうしてこんなことをしてしまったのだろうと目を細めた。
私はどうして、社から飛び出したくなったのだろう。それはきっと、親しそうに話す鬼と狐を見ていられなかったから。狐が知っていて、私が知らない鬼の過去があることに、たまらない気持ちになったから。でも、飛び出したくなるくらいそれらが嫌だったのは、なぜ?
ふと、手前でがさりと草の動く音がした。視線をそちらに向ければ、少年の姿をした山犬が草木をかき分けてやってくる。追いかけてきてくれたらしい。私は「来てくれたの」と掠れた声で呟いた。
少年は遠慮がちにこちらへやってくると、私の隣にそっと腰を下ろす。彼は額を私の腕に擦りつけ、甘えるような素振りを見せた。まるで山犬の姿の時のようだ。私は思わず微笑んだ。
「悲しい匂いがする。傷ついているんだね、澄子」
囁くように言うと、少年は私を静かに見つめた。木漏れ日と同じ色をした瞳が私を真っ直ぐに見つめている。
「あの女狐かい? あいつが君を傷つけたの?」
「いいえ。そうじゃないのよ、モモ」
その瞳の中にちらつく怒りの色に、私はゆっくりと首を振る。狐は恐ろしかったけれど、彼女の言葉に傷ついたわけではない。
「私も、どうして自分がこんなことをしたのかわからないの」
少年のやわらかな髪を撫でながら目を伏せる。
「私、ナキ様があの方と親しそうにお話をされているのが嫌だったの。でも、それがどうして、社を飛び出したくなるくらい嫌だったのか、わからない」
怪訝そうに首を傾げると、少年は思案するように折り曲げた人差し指を口元に当てた。しばらくそうしていると、彼はおずおずと私に問いかける。
「もしかして、君は、あの狐がうらやましかったんじゃないの?」
「うらやましい?」
少年の言葉を無意識に繰り返す。そして、すとんと心に落ちたそれに、私はなるほどと頷いた。
この気持ちは、親しい人に自分よりも親密な人がいて、うらやましいという気持ちなのだろう。今まで特定の誰かと親しくすることのなかった私は、そんなことすらわからなかったのだ。少しだけ恥ずかしくなって、私は熱い頬を隠すように俯いた。
――あんたは全部、私から奪ってくんだ。
ふと、涼子の顔が目に浮かんだ。彼女だけに注がれるべきだった両親の愛情を、私が奪い続けてきた人。私に憎悪を向けてきたかわいい妹。私が村にいる間、涼子はいつもこんな気持ちだったのかもしれないと思うと、また気持ちが沈む。
――ねえ、私がどんな気持ちだったかわかる?
今なら、あなたの気持ちがわかるのかな、涼子。私は立てた膝の上に顎をつけた。
心配そうな表情で少年が覗き込んでくる。下がった眉がかわいらしい。
「そうね。きっと、私、ナキ様のことをよく知ってる彼女が、うらやましいんだわ」
鬼が狐に向けた微笑みを思い出す。胸が苦しい。
なんて、嫌な気持ちなのだろう。あの鬼は、私のものではないのに。あの鬼が誰と親しくしていたとしても、私にはなんの関係もないのに。
涼子もこんなことを考えていたのだろうか。私は首を振る。妹の場合は、父母の愛情に向けられたものだ。それは親を取られた子どもの正当な気持ちであって、今の私の気持ちとは違う。私の鬼に向ける執着は、決して正当であるとは言えない。
ごめんね、涼子。私、まだあなたの気持ちをわかってあげられない。
じわりと視界が滲んだ。震える私の肩を少年の小さな手が撫でる。
「苦しいかい? 澄子」
尋ねる声に私は頷く。
「苦しい。とても、とても苦しい。こんな気持ち、私、知らない。どうして、私はナキ様と親しくする彼女を、うらやましいと思ってしまうの?」
「君はきっと……あの鬼のことが、好きなんだね」
細い指が私の髪を撫でる。少年は優しい声で囁いた。
「君は恋をしているんだ」
木漏れ日がしんしんと落ちる森の中に、少年の声がささやかに響く。まるで内緒話をするかのように、少年と私は身を寄せ合って互いの視線を合わせた。少年の新緑の瞳がきらきらと輝いている。
「恋……?」
吸い込まれるような瞳の輝きに、自然と私の声も囁くようなものになった。
少年は一つ頷くと、私の頭をくしゃりと撫でる。
「そうだよ、澄子。君は、あの鬼に恋をしているんだ」
細い腕が私を包み込む。少年の腕の中で私は目を閉じた。すっと涙が頬を伝って落ちていくのがわかる。
「……わからない。この気持ちが恋なのか、私にはわからないわ」
「それでいいさ。君は恋をしたことがないんだね。わからなくていいんだよ、初めてのことなんだから」
きゅっと少年が私を抱きしめる。
「これからわかるようになるさ。ゆっくり、わかるようになっていくのさ」
ああ、恋とは、こんなにも切なくて、悲しい気持ちなのだろうか。それならば、知らないままの方が良かった。少年に頭を撫でられながら、私は静かに泣いた。
◆
気づくと、頭上には静かに輝く月があった。ちらちら輝く二つの月は、ゆっくりと細くなっていく。その後ろでは夕陽が揺れていた。私はぼんやりと曖昧な空を見上げる。
二つの月と、夕陽。夢のような光景だった。
「泣いていたのか」
月が私に語りかける。凛と響く低音は鬼の声だ。ならば、これは月ではなくて、鬼の瞳だ。
私が恋をしているらしい、鬼の瞳だ。
「目が腫れているぞ、澄子」
冷たい指先が私の目元を擦った。むずかゆい感触に身じろぐと、鬼の肩に私の肩が当たる。どうやら私は鬼に寄りかかるようにして眠っていたらしい。先ほどまで山犬がいた場所に鬼がいる。山犬はどこにいったのだろう。周囲を見回すと、私と鬼以外誰もいなかった。
ふと、鬼が私の名前を呼んでいることに気づいて目を見開く。今まで、彼女は私のことを「お前」とか「娘」と呼んでいたのに。そういえば、私が社を飛び出した時も名前を呼んでいたのではなかったか。心臓がどきどきと脈打つ。なんとなく落ち着かない気持ちになって、私は身じろぎをした。
鬼はもぞもぞと動く私を抱き寄せると、私の頭に自分の頬を乗せた。ふわりと鬼の香りがする。獣の匂いと甘い香がまざった香り。私は目を閉じて鬼の香りを吸い込んだ。
これは本当に夢なのかもしれない。私は真っ暗な視界の中で思った。
私のそばに鬼がいることが信じられない。鬼が私を追いかけてきてくれるなんて。名前を呼んでくれるなんて。きっとこれは私にとって都合のいい夢なのだろう。
夢の中ならば、いいだろうか。私はそっと鬼にすり寄る。これが現実ならいいのに。もしこれが現実なら、とてもうれしい。この鬼が、あの狐を置いて私を探しに来てくれたことが、こんなにもうれしい。
――ああ、これが、恋だというのだろうか。
なんて、甘やかな痛みなのだろう。なんて、切ない喜びなのだろう。本当に、知らなければよかった。
「おれが、泣かせたのか」
淡々と問いかける鬼の声に私はそっと頷く。
「そうですよ、ナキ様。私は、あなたが恋しくて、泣いたのです」
あなたへの恋心が苦しくて、泣いたのです。
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