2-⑥
幸い、米は少し焦げただけで済んだ。焦げたところも食べられない程というわけでもない。ほっと息をつきつつ、私は朝食の準備を再開した。
ふと、開け放たれたままの社の扉を見る。社の中はもぬけの殻だ。鬼はまだ帰ってきていない。少しだけ残念がっている自分に気づいて、私は首を振った。帰ってきたとしても、一緒に食事が摂れるというわけでもない。何を残念がっているのだろう。
「ねえ、モモ。さっき、ナキ様と私が似ているって言っていたよね?」
「うん。言ったけど、それがどうしたの?」
「それって、どういう意味なんだろうって思っただけ」
「ああ、そういうこと」
茶碗に盛った米を食べながら、少年は「うーん」と眉を寄せた。その頬には米粒が一つついている。「ついているよ」と教えると、少年は照れくさそうに米粒を取っていた。
「そうだねえ。あんまり言いたくないけど、あの鬼と君は匂いがよく似ているんだよ」
「匂い?」
首を傾げて、私は自分の肩のあたりに鼻を寄せる。髪や体は毎日拭いているけれど、水浴びはできていない。確かに少し匂うかもしれない。
「一緒に暮らしているわけだし、似てくるとは思うけど……」
もしかして、少年――山犬には嫌な匂いだっただろうか。なんだか申し訳なくなってくる。眉を下げながら少年を見つめると、彼は「違う違う」と小さなてのひらを振った。
「そういう意味じゃないよ。僕はね、その人がどういう感情を持っているのか、匂いでわかるんだ。心根の匂いって言うのかな」
「心根?」
「そう。それが、君とあの鬼はよく似ている」
輪切りにして湯がいただけの蓮根を口に入れる。少年も同じものを食べた。しゃくしゃくと噛み砕く音。少年は「おいしいね、これ」と無邪気に笑った。
「きっと、それは間違いよ」
笑う少年を見つめる。緑色の瞳が揺れていた。耐えられなくなって、私はそっと俯いた。
「ナキ様と私は似ていないわ」
あの美しい鬼と私の心根が似ているわけがない。あの鬼の心根は美しいから。秋の風に揺れる稲穂のような、穏やかな心根をしているはずだから。
私は自分の胸を掴む。
私の心根は、雨の後の泥濘だ。
「君が、どう思っているかわからないけど」
少年の声が静かに響く。
「あの鬼は、ただの甘ったれだよ。そのくせ、強がりでそれを覆い隠しているんだ。本当は自分のことを可哀そうだって憐れんでほしいのに、自分がみじめだと他人に思われるのは嫌だから、必死に隠してるんだよ。そんな甘ったれの匂いが、あの鬼からするんだ」
「そんなこと、」
あの鬼が甘ったれだなんて、そんなことはない。慌てて顔を上げると、少年の深緑の瞳がこちらを射抜いた。
「君もだよ、澄子」
しゃく。少年がまた蓮根を口に入れる。
「君からも、甘ったれの匂いがする。けれど、君のは鬼とはちょっと違うんだ。だから、かなりマシ。僕は君の匂いの方が好きだよ」
少年は口元を隠してくすくす笑った。少しだけ、嫌な笑い方だった。
かたんと少年が箸を置く。
「おいしかったねえ。この蓮根ってやつ、気に入ったよ。……お腹がいっぱいになったら、眠たくなってきちゃったな」
赤ん坊が這うようにして少年がこちらへやってくる。ころんと寝転がると、少年は私の膝を枕にして目を閉じた。
「眠るの?」
「うん。僕、澄子の膝、好きだな」
頬をすり寄せてくる少年の髪を撫でる。広がったままの食器を片づけたい気持ちもあるけれど、まあいいかとそのふわふわした感触を楽しむことにした。
「僕はね、澄子。あの鬼のこと、嫌いってわけじゃないんだよ。ある意味なら分かり合える気もするんだ」
「うん」
「……ただ、あの鬼は嫌がるだろうなあ」
言いながら、少年は少しずつ微睡の中に落ちていく。やがて規則正しい寝息が聞こえてきた。さわさわと風が木々を揺らす。心地の良い夏の風に私は目を細めた。
――あの鬼は、ただの甘ったれだよ。
少年の言葉が蘇る。
――君もだよ、澄子。君からも、甘ったれの匂いがする。
今は瞼の下に隠されている彼の瞳を思い出す。心がざわついた。
昨夜、私は鬼が受けた呪いの話を聞いた。なぜ彼女が人を憎むのかも、なんとなくわかった気がした。その心根はきっと穏やかなものなのだろうと確信した。それなのに。
少年の柔らかな髪を撫でる。安らかな顔で眠る彼。山の神の眷属。その深緑の瞳に、嘘はなかったと思う。
あの鬼は何を憐れんでほしいのだろうか。呪いを受けた自分自身だろうか。それとも、何か別の、もっと奥の方にあるものなのだろうか。
――あの鬼は、何を隠しているのだろうか。
「ナキ様……」
鬼の名前を呼ぶ。
知りたいと思った。あの鬼のすべてを、暴きたい。
なぜ? 私は、なぜ、あの鬼のことを暴きたいのだろう。
心の中をどろどろした何かが渦巻く。ざわざわと心が何かに揺さぶられる。
「いや……」
落ち着かない気持ちが嫌で、私は無意識に呟いた。
膝の上を見つめる。少年の姿は山犬に変わっていた。眠ると人の姿を取れなくなってしまうのだろう。
起こしてしまうかもと思いつつ、私はそっと山犬をかき抱いた。やはり目を覚ました山犬が頬を舐めてくる。「くう」と高く鳴くのが切なくて、私はさらに強い力で山犬を抱いた。
「……ごめんね、起こしちゃったね」
でも、どうかこのまま。
言葉を持たない山犬は私の肩に顎を乗せて返事のかわりにした。人の姿の時も、これくらい優しければいいのにと思った。
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