2-⑦
食事の後片付けをした後、私は濡れ縁に腰掛けて一休みしていた。隣では山犬が丸まって眠っている。
じりじりと照りつける夏の日差しは、周辺の木々が影を伸ばすにつれて少しずつ鋭さを増していく。しかし、森から吹いてくる風によって、暑さはいくらか和らいでいた。
ふと、私の手にひたりと冷たいものが触れる。驚いてそちらを見ると、小さな少年の手が私の手に重なっていた。
「澄子。嫌な匂いのやつが来るよ」
耳元でどこか緊張したような声が囁く。同時に、さくりと土を踏む音がした。その音は森の中からゆっくりとこちらに近づいてくる。鬼が帰ってきたのだろうか。私は立ち上がって音のした方をじっと見つめる。
さくり。さくり。音は徐々に大きくなり、やがて森の中からにゅっと白い手が伸びてきた。青々と繁茂する森から伸びる白い手。その不気味な様に、私は思わず息をのむ。
人の手だ。その手が木々をかきわけると、空色の瞳を持つ女が現れる。
「人と、山のモノの眷属……か?
私と少年を舐めるように見ると、女は愉快そうに目を細めた。ぬばたまの髪に白磁の肌。切れ長の目を縁取るまつげは濃く、頬に影を落としている。鶯色の地に高貴な桐模様をあしらった夏着物を纏う女は、着物に施された模様に負けず劣らずの美貌だった。その片手には、社の中にあったものと同じような瓢箪がぶら下がっている。
くつくつ笑う女から私を隠すように少年が前に出る。
「悪いけど、僕たちは別にあの鬼から飼われてるわけじゃあないよ」
「おやおや。アタシに喰ってかかるとは、あの鬼め、躾がなっておらんな」
「むかつくなあ、君。なんの用だい?」
「ふふ。お前らの主に会いに来ただけよ。ほうら、上等な酒も持ってきた」
手に下げた瓢箪を掲げて、女は口元を袖で隠しながらくすくす笑った。絢爛な刺繍の施された袖がゆらゆらと揺れている。
「残念だけど、あの鬼は留守だよ。嫌な匂いがするから、さっさと帰ってくんないかな」
愉快そうな女とは対照的に、少年の声は低く、苛立ちを隠そうとしていない。その表情は見えないけれど、小さな背中からはぴりぴりとした敵意が感じられる。
彼がここまで警戒しているなんて。私は少年の背中越しに女を見つめる。上品ないで立ちをしているけれど、どこか怪しげな美貌の女性。ここが鬼の住処であることを知っているあたり、きっと彼女も人外のものなのだろう。
こちらの視線に気づいたのか、女も空色の瞳を私の方に向けた。いたずらっぽく首を傾げ、一歩近づいてくる。
「動くなよ、女狐」
少年の硬い声が鋭く響く。女が細い目を見開いた。
「驚いた。まさか、正体がわかるとは思わなんだ。お前、ただの獣ではないね」
「うるさいな。僕のことなんかどうでもいいんだよ。君、帰れって言ったの聞こえなかった?」
「せっかく来てやったんだ。そんなつれないこと言うものではないよ」
ため息まじりに言いながら、彼女は何もないはずのそこに、まるで切り株があるかのように腰を下ろして見せた。私は思わず瞬きを忘れて見つめてしまう。何もない空間の上に座っている。無理な姿勢であるにも関わらず、優雅に頬杖をついてすらいるなんて。
「それに、そこの人間にも興味がある」
ふと、少年に向けられていた視線がまたこちらを向く。私はこくりと息をのんだ。
「お前のことは、あの鬼から聞いているよ」
女は狐のようににんまりと笑った。妖しい微笑みを真正面から向けられて、私は静かに顎を引く。その口元は確かに笑みの形をしているのに、彼女の空色の瞳は怒りを湛えてるような気がした。それが恐ろしかった。
こちらの心を見透かしたかのように、女は絢爛な袖越しにくすりと笑った。
「そう怯えるな。別に取って食おうというわけじゃあない。そうだ、娘よ。鬼御前が帰ってくるまで、アタシの話し相手になるといい」
「え、私がですか……?」
「お前が、だ。光栄に思えよ、娘。さあ、こちらへおいで」
女は上機嫌に私を手招きをしている。ゆらゆら揺れる白い指先。
鬼が帰ってくるまで待つというのなら、暇つぶしの話相手くらいしてもいいかもしれない。上下する手をじっと見つめていると、どういうわけかそんな気分になってくる。ああ、でも、山犬の警戒の仕方は尋常じゃなかったから、この人は危険なのかもしれない。近づくべきでないのかもしれない。でも、話し相手くらいなら――
「澄子、近づいちゃいけないよ」
一歩前に出た私の袖を、少年がくいっと引っ張った。いつの間にか立ち上がっていたらしい。
ハッとして少年を見つめると、彼は苦い顔をしてため息をつく。
「あいつは大陸から来た妖狐だ。それもだいぶ長生きしている。妖狐になんて、気に入られても、気に入られなくても、良いことなんかないぜ」
「妖狐……?」
「そうだよ。うまく隠してるから、君には空中に座っているみたいに見えているんだろうけど、あいつが今座ってんのは自分の尻尾だ。五本もあれば便利なもんだね」
じとっと目を細めて言う少年に、妖狐と呼ばれた女は甲高く笑った。
「良く見える目をお持ちだこと。おっしゃるとおり、アタシは二千年生きた妖狐。縁あってあの鬼の世話を焼いているのさ。まあ、
狐はこてんと首を傾げて私を見た。空色の瞳の中で、炎のようなものが揺らいでいる。ああ、やっぱりこの狐は怒っているのだと思った。
「人間嫌いの妹が、あまりにもうれしそうに拾った人間の娘のことを話すものだからね。アタシも一度会ってみたくなったのさ」
桐の刺繍をあしらった裾が揺れる。狐は白くて長い脚を見せつけるように交差させた。にたりと赤い唇が吊り上がる。
「人間ごときがアタシのかわいい鬼御前に取り入って、害をなそうとしているのなら――殺してやろうと思ってね」
言い終わった瞬間、狐の姿がふっと消える。一瞬のことに、私は息をのむことすらできなかった。
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