2-⑤
すぐに戻ると言っていたくせに、鬼は朝になっても戻らなかった。天井の穴から漏れてくる光が照らす、空っぽの彼女の寝床をぼんやりと見つめる。どこか寂しいような気持ちになってしまって、私は慌てて首を振った。こんな気持ちになるのも、社の中で鬼と共に眠るようになったせいに違いない。目が覚めると一番に鬼の寝顔が見えるものだから、まどろみつつその寝顔を見つめるのが日課になってしまっているのだ。今日はそれが見えないから、寂しいというか、落ち着かない気持ちになっているのだろう。
誰にともない言い訳をしている私の足元で、もぞもぞと山犬が身じろぎする。太ももに鼻先を押しつけてくるしぐさはかわいらしいけれど、あの少年の姿を思い出してなんとも言えない気持ちになった。
「おはよう、モモ」
苦笑しつつあいさつをすると、山犬はひとつ鳴いて返してくれた。
「朝ごはんの支度をしようか」
大きく伸びをしながら社の外に出る。食事の準備に取りかかろうと、濡れ縁に置いておいた土鍋と火打石を取り出した。まずは火を熾して、それから米を炊こう。
社の手入れの最中、私は周囲からさまざまなものを見つけていた。見つけたものはほとんどが野宿に使えそうなものだ。もしかしたらこの社は、かつて旅人の休憩場所になっていたのかもしれない。私は残してくれた人々に感謝しながら、度々それらを拝借していた。
「お米が炊けるまで、お掃除でもしようかしら」
火にかけたばかりの土鍋と社を交互に見る。
社は初めて来た時よりもかなりきれいになったと思う。正直、できる限りのことはし尽くしていて、いまは簡単な掃除くらいしかすることがない。
「掃除って、どこをきれいにするっていうのさ」
いつの間にか少年の姿になっていた山犬が隣に座る。目が合うと、彼はやはりにっこりと笑った。
「もうすっかりきれいだよ。山神様も喜んでる。それより、一緒に木の実を取りに行かない?」
こてんと首を傾げるのがかわいらしい。提案も魅力的なもので、私は「そうね」と頷いた。
「でも、あまり遠くまで行けないよ?」
「うん、もちろん! 行こう、澄子」
彼は勢いよく立ち上がると、私の手首を掴んだ。思いの外強い力で手を引かれて、私は慌てて立ち上がる。反動でよろけそうになるのをなんとか堪えた。
「ああ、ごめんごめん。まだ、力の加減がよくわからなくて」
「大丈夫だけど……そういうものなの?」
「そういうものさ。まだ人の体に慣れていないんだ」
眉を下げると、少年はもう一度私の手を引いた。今度は優しく、まるで壊れ物に触るかのような力加減だ。
もみじのようなの手に引かれながら、私は森を進んでいく。森の中は陽光を受けてそこここに木漏れ日が差していた。きらきらと揺れながら繁茂する草花が美しい。なんだかいつもよりも森のようすが優しい気もしてきた。前を歩く少年の後ろ頭を見つめる。彼のことを、あの鬼は山の神の眷属だと言っていた。もしかしたら、山の神の力が増しているからなのだろうか。
「澄子はさ、あの鬼のこと、怖くないの?」
木の実を採っている最中に、ふと少年が尋ねてきた。獣の姿のときと同じ、緑色の瞳が木漏れ日を受けて揺れている。
「そうね。もう怖くないかも」
「ふぅん。どうして?」
どうして。彼の質問を心の中で繰り返す。
それはきっと、彼女の穏やかさを知ったから。あの鬼の弱さを、知ってしまったから。
「ナキ様は、優しい方だってわかったから」
「ああ、心根が穏やかだって、前言ってたもんねえ」
「モモこそ、ナキ様のこと怖がってるじゃない」
「えっ、僕が?」
深緑の瞳がまん丸に見開かれた。思わぬ反応に私は首を傾げる。
「違うの? だって、初めはすごく威嚇していたわ。初対面であれだけ痛めつけられたわけだから、そうなんだろうなって思っていたんだけど……」
私の言葉に、少年は「うげ」と顔をしかめると、腰に手を当てて頬を膨らませた。怒っていますよと言うかのようで笑ってしまう。実際、少し怒っているのだろう。
「あの時はそうだったかもしれないけど、今の僕はただの獣とは違うんだよ。あんな鬼、恐れるわけないさ」
「そうなのね。ごめんなさい」
謝りつつも、年相応にむくれる姿がかわいくて、私の顔は笑ったままだった。それに気づいているのだろう、少年はぷいっとそっぽを向いてしまう。「怒らないで」と顔を覗き込めば、また別方向を向いてしまった。そんな仕草もかわいいけれど、これ以上機嫌を損ねたくない。私は顔に気持ちが出ないよう努めながら眉を下げた。
しばらくそうしていると、少年は小さくため息をついてこちらを向く。
「別に、わかればいいよ。それに、本当に謝らなくちゃいけないのは僕の方だ」
「謝る? なんのこと?」
「初めて会った夜、僕は澄子のことを殺そうとしただろ。いくら獣に堕ちていたとしても、君を傷つけようとしたことは事実だ。……ずっと謝りたかった。ごめんね、澄子」
伏せた少年の目に、真っ直ぐ伸びたまつ毛が影を落とす。先ほどまで木漏れ日のように輝いていた新緑色はすっかり陰ってしまっていた。暗い色の瞳が、あの夜見た獣の瞳と重なる。私は初めて社に来た夜を思い出した。暗闇の中で光る獣の瞳。その奥で揺れる金色。
膝を折って少年と目線を合わせる。不安そうに揺れつつも、こちらをしっかりと見つめてくる瞳に、私は「いいの」と首を振った。
「あの時のあなたは、とても痩せていたわ。お腹が減っていたのなら、しかたのないことよ。それに、」
――なぜ、笑った?
初めて聞いた鬼の声が耳の奥で反響する。そういえば、なぜあの時、彼女はあんなことを聞いたのだろう。私を、助けてくれたのだろう。
「それに、モモがああしなかったら、私はきっとナキ様にも、あなたにも会えないまま死んでいた。私ね、ここで生きている今がとっても、幸せなの」
「澄子……」
「だから、いいのよ」
少年は一瞬だけ泣き出す直前のような顔をした。しかし、すぐに俯く。
「君は、やっぱりあの鬼と似ているね」
「ナキ様と?」
「うん。でも、僕はあの鬼よりも、君の方がずっと好きだよ」
顔を上げた少年はにっこりと笑っていた。
先ほどの表情とは打って変った笑顔と、その言葉に呆気に取られてしまう。私と鬼が似ているとは、どういう意味なのだろうか。黙り込む私の手首を、少年がきゅっと掴む。
「そろそろ戻ろうか。お米、きっと炊けてるんじゃないかな」
「あ、そうね。そうだった……」
「ふふ、忘れてたでしょ?」
のんきに「焦げてないといいねえ」と笑う少年に、私は曖昧に頷いた。
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