2-④

「ナキ様は、お酒の味はわかるのですか?」


 寝床の準備をしながら話しかけると、鬼は手に持った酒を煽りながら「ああ」と頷いた。


「どういうわけか知らんが、酒の味はわかる。だから酒は好きだ」


 喉を上下させつつ、彼女はそういえばと口元に指先をあてる。しばらく思案するように目を伏せて、ちらりと金眼をこちらに向けた。


「お前と食ったあの実も、甘い味がしたな」


 味を思い出しているのか、鬼はうっすらと微笑んでいた。その笑みを見た瞬間、私はその唇に視線を落としてしまう。


 山桃の実ごと私の指を咥える鬼の姿は、今でも鮮明に思い出すことができる。実を言うと、何度か夢に見た日もあった。この唇に隠されている薄い舌が、私の指をゆっくりと舐めていく生々しい感触も、はっきりと覚えていた。


 かっと顔が熱くなる。このまま鬼と一緒にいると気がおかしくなりそうだった。彼女の放つ甘い香りもよくない。なんとか社の外に出たくて、私は周囲を見回した。ちょうどよく、開け放たれたままの扉から山犬がじっとこちらを見ているのに気づく。


「わ、私、モモにご飯を出してきますね。二日続いて村へ行ったから、きっといつもよりお腹を空かしているでしょうし」

「だめだ」

「へっ……?」


 立ち上がりかけた私の手首を白い手が掴む。そのままくっと後ろに引かれて、私はむすろの上に座り込んだ。背後から伸びてきた腕が胸の前で交差する。左の肩に何かがとんと置かれてそちらを向けば、そこには鬼の顎が乗っていた。


 間近に迫った美貌に息をのむ。ごくりと鳴った喉に鬼が唇を尖らせた。


「おれが人喰いとわかって怖気づいたか? 逃げる気ならば許さんぞ」


 不機嫌さを隠さずに彼女に、そうではないと口を開いた刹那だった。


「いやいや、そこは離してあげようよ。オアツイのはいいことだけど、僕もお腹空いてんだよねえ」


 社に響く少年の声。


 聞き覚えのないそれに、いち早く反応したのは鬼だった。彼女は飛び上がるようにして私の前に躍り出ると、だんと威嚇するように床を強く踏みしめる。ざんばらな黒髪が私の目の前でばらばらと散った。


 鬼の肩越しに声のした方を見て、私は目を見開く。開け放ったままの社の扉、ちょうど先ほどまで山犬がいた場所に一人の知らない少年がいた。少年はうつぶせに寝転び、頬杖をついてこちらを覗き込んでいる。私と目が合うと、にっこりと花が咲いたように笑ってみせた。


 場違いなほど毒気のない笑顔に、私は半ば呆然とその幼い表情を見つめてしまっていた。それは鬼も同様だったようで、身構えていた肩から徐々に力が抜かれていくのがわかった。


「お前、人型をとれたのか。それとも、山の神に信仰が戻ったせいで力を戻したのか?」


 ため息まじりに鬼が尋ねる。私は何の話かわからず、彼女と少年を交互に見ることしかできない。


「おかげさまで。あんたの功績を横取りしたみたいで気に入らないけど」

「ふん。思ってもないことをしゃあしゃあと」


 つまらなそうに言うと、鬼は立ち上がり、くるりと踵を返す。私を追い越して奥の小上がりに座ると、もう話すことはないとでも言うかのように酒を飲み始めた。


 少年はにんまりと目を細めると、ゆっくり立ち上がった。若草色の小袖を着た少年は、数え年で十くらいだろうか。もう少し幼いのかもしれない。それなのに、どこか大人びた話し方をするのがちぐはぐで不気味だった。


「冷たいなあ。ねえ、澄子?」

「えっ、なんで私の名前を知っているの?」


 いつの間にか私の隣にしゃがんでいた少年に、私は驚く間もなく問いかける。すると、彼は少し悲しそうに眉を下げた。まるであの山犬が耳を下げているときのようだ。そういえば、山犬はどこに行ったのだろう。


「うーん。やっぱりわかんない?」


 こてんと可愛らしく首を傾げるのに、私は素直に頷く。


「というか、あなたは誰?」

「あなたなんて言わないでよ、澄子。いつもみたいに、モモって呼んで?」

「――え」


 思いもしなかった名前に言葉を失う。モモ? この少年が? 混乱するあまり、私は小上がりで酒を楽しんでいる鬼に縋るような視線を投げた。


 目が合った鬼は、片眉を上げると「ははあ」なんて意地悪く笑う。先ほどまでの切なそうな彼女はどこへ行ってしまったのだろうか。いつもどおりの態度がうれしい反面、少しだけ惜しいような気持ちになってしまう。


「それは間違いなくあの山犬だぞ。あれは古くからある山の神の眷属。まあ、最近までは信仰する者がいなくなったせいで力を失くしていたがな」


 言いながら、鬼は手に持った瓢箪を振った。たぷんと中の酒が跳ねる音がする。


「神社の立て札には山の神を奉るとあったのだろう? あの村の人間どもがまた信仰を持ったおかげで、山神も力を取り戻したというわけだ。おかげで山犬も眷属としての力を取り戻したのだろうさ」

「でも、村を救ったのは……」


 ちらりと少年を見る。言い淀んでいる私に、彼は苦笑気味に「いいよ、言って」と囁いた。


「えっと、ナキ様……ですよね?」

「ふん。村人はおれの姿など見ていないだろう。山の神がやったのだと信じているのなら、信仰の対象はそれになる」


 鬼の言葉に少年が頷く。


「そういうこと。だから、山神様も手柄を横取りしちゃったみたいであまり素直に喜べないんだ」

「そ、そうなんだ……」

「行いに対する信仰の対象が間違っているから、力も全部は戻っていない。実は、僕が人の姿を取るのもやっとやっとなんだよね。気を抜くと尻尾が出ちゃうし」


 少年は「見てごらん」と振り返る。その尻には言葉のとおり山犬とよく似た尻尾が生えていた。ゆらゆら揺れる尻尾があまりにも可愛らしくて、私は手を合わせてそれを見つめる。


「わあ、かわいい!」

「ほんと? 僕、かわいい?」

「ええ、とっても」

「じゃあ、このままでもいいかなー!」


 ぎゅっと抱き着いてくる少年を受け止める。山犬がそうしていたように、彼は私の頬に自分の鼻先を押しつけてくる。


「わ、わわ、だめよ、モモ」

「なんで? 犬のときは良かったじゃないか」

「人の姿でされると、照れちゃうわ」

「ふふ。澄子はかわいいねえ」

「もう、からかわないで!」


 怒った素振りをしながらも、私の内心は懐いてくる子どもをかわいいと思っていた。村ではよく同じくらいの年頃の子どもたちと遊んでいたから、なんだか懐かしい。


 しばらくじゃれ合ったり、食事をしたりしていると、いつの間にか少年は私の膝を枕に寝てしまっていた。膝の上に広がる髪の毛を撫でる。山犬の硬い栗毛と色は同じだけれど、その感触は反対にふわふわしている。これも悪くない。


「やっと寝たか」


 少年と私が会話している間、黙ってこちらの様子を見ていた鬼は、ぽつりと呟くと持っていた瓢箪を置いて立ち上がった。


「にぎやかでしたね」

「やかましくてかなわん」


 呆れたような声音でそう言うと、鬼は社の外へ出て行ってしまう。


「お出かけですか?」

「ああ」

「お気をつけて」


 何気なくかけた言葉に、一瞬だけ金色が細められた。


「……すぐ戻る」


 どこか照れくさそうな、けれど柔らかな言葉に、私は思わず微笑んだ。


 鬼は角をひとつ撫でると、どこかへ飛び去ってしまう。その後ろ姿を見送って、私は眠っている少年を見た。


「あら」


 膝で眠っていたはずの少年は、いつの間にか山犬の姿に戻っていた。

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