2-③

「呪い……」


 私が口の中でその言葉を転がすように呟くと、鬼は金眼を細めて頷いた。


「そう、呪いだ。あの男のかけた呪いは、人の血肉の味をわからなくさせるものだった」


 彼女は語る。眉を寄せながら、唇を噛み締めながら。心底忌々しいのだと言うように。


「それを知っておれは怒り狂ったよ。人の血肉よりうまいものを、おれは食ったことがなかったからな。まあ、今とはなっては、人の血肉よりまずいものも食ったことがないが。怒りに任せてあれを爪で、牙で八つ裂きにした。引き裂いた体から滴る血を啜っても、泥水を啜っているようだった。肉を食んでも、ぶよぶよした無味の塊を食らっているようだったよ」


 私は鬼の手を握る自分のてのひらに力を込めた。


 この鬼は人を喰らい、殺している。聞くだけでも恐ろしい話だ。てのひらが嫌な汗をかいている。握った鬼の手首が滑って抜けていきそうだ。それでも、どういうわけか、この手を離してはならないと思った。


「他の人間を捕らえて食らっても同じだった」


 自由な方の手で鬼が顔を覆う。白い手が額を覆い、そのまま前髪をかき上げていく。ざんばらな髪がぐしゃぐしゃに乱れるさまを、私はただ見ていることしかできなかった。


「一度人を食った鬼は、人しか食えんのだ。人の血肉は甘露よ。あの味を知れば、他の味など無味に等しい。あれから、何を喰っても味がしなくなった。おれは今もあの時のまま、飢餓に苛まれているのだ。なあ、女よ。死にかけたお前なら知っているだろう? 途方もない飢えと渇きを」


 切実な色を孕む金眼に、私は思わず「ああ」と吐息を漏らしてしまった。


 飢えと渇きの苦しみは、私も嫌というほどわかっている。それを、この鬼は私よりもずっと永い間、耐え続けているのだ。


「おれが愉しむために人を喰らっていたのは事実だ。食事とは時に快楽を得るための行いにもなる。それを奪われるのは、生き地獄だ」


 紅い唇が自嘲気味に歪む。嗚咽にも似た笑い声がそこから漏れ出ていた。


「人を殺して喰らうのは罪深いことなのだとあの男は言った。だから、お前が悪いのだと、あの男は言った」


 黒髪の隙間から鬼がこちらを見る。憎しみを湛えた、けれど、悲しい金色。


「鬼というのは、ものを喰わずとも生きることはできる。だが、人を喰わねば、鬼は強くなれん。あの時代、京の都で弱い鬼は殺されるだけだった。同胞どころか、人間にだって簡単に殺されるほど、おれは弱かったのだ。おれが生きるために人を喰らっていたのも、また事実だった。なあ、おれは死ねば良かったのか? おれは、化け物は、生きることも許されないと言うのか? なあ、女よ」


 私は堪らず、握っていた鬼の手をそっと引き寄せた。それでも、彼女は語るのをやめない。


「お前には、おれの姿はお前を犠牲にしたあの村人どもと同じに見えるか?」


 見上げた鬼の金眼は頼りなく揺れている。憎しみと悲しみを同じだけ燃やす金色が、ゆらゆらと。


 私はそっと、鬼の思いの外細い体を抱きしめた。彼女が息をのむ。一瞬だけびくりと強張った体は、次第にゆるゆると弛緩していった。


「いや、それよりもひどい、醜い化け物に見えるのだろうな」


 生きるために人を喰らい、それを咎められた鬼。咎められただけでなく、食することさえ禁じられた鬼。


 この鬼が化け物だなどと、どの口が言えようか。


 けれど、今の私に鬼を慰める言葉は見つけられない。私はただ、鬼の背に回した腕にぎゅっと力を込めた。彼女は抵抗こそしなかったれど、その腕はだらりと力なく下がっている。


「だが、お前ら人間とて、殺すだろう」


 ぽつりと鬼が言う。


「生きるために、他の生き物を、殺すだろう。喰らうだろう」

「……っ、」


 目が熱くなる。視界が滲む。涙が溢れる前に、私は目を瞑って鬼の胸元に顔を押しつけた。泣いてはいけないと思った。


「愉しむために、喰らうだろう」


 掠れた低い声に、胸が締めつけられた。


「おれが醜い化け物ならば、お前ら人間とて、醜いけだものだ」


 彼女の声に怒りの感情はなかった。ただそれが事実だと言うかのように、淡々と言葉を紡いでいた。


 この鬼は、きっと、誰も悪くないということをわかっているのだろう。自分に呪いをかけた人間も、そうするしかなかったのだと理解しているのだ。それでも人への憎しみを絶やさないのは、そうしていないと自分が立っていられなくなるから。人間を許してしまうと、自分の生きるための行いを否定してしまうから。


 悲しいほどに、この鬼は優しい。


 私は顔を上げて鬼を見つめる。


「村人たちの行いも、あなたの行いも、私にはどうとも言えません。けれど、私はあの日、言ったはずです」


 大人しく抱きしめられている鬼に、私はそっと語りかける。


「一生懸命に生きることは、何よりも尊く、美しいことだ、と」


 薄い肩がぴくりと揺れた。


 鬼はゆっくりと私から体を離すと、下がり気味の眉をさらに下げて笑う。


「本当に、ばかな女だよ、お前は」


 低くて心地いい声。それに目を細めて、私も笑った。

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