2-②

 日がとっぷりと暮れるのを待ち、私は再び山犬と共に夜の山道へと繰り出した。


 村にいた頃は、老人たちから夜とは恐ろしいものなのだと聞かされていた。実際、夜は獣が活発に動く時間だと知ってからは、私もそのとおりだと思っているし、その認識は今も変わらない。しかし、この社に来てから、夜という時間は悪いものではないとも思えるようになった。木々のざわめく音に驚くこともあるけれど、蛙や虫の鳴き声を聞きながら歩くのは楽しい。それに、何か恐ろしいことがあったとしても、隣を歩く山犬が守ってくれるという安心感がある。何よりも、頭上を覆う木々の隙間から時折覗き見える星空の美しさは格別だった。夜空を青々と照らす月も良い。


 ふと、少し前に真夜中に目覚めたとき見た景色を思い出す。


 倒れた日から、私は社の中で鬼と共に眠ることを許されていた。理由は、また勝手に倒れられたら面倒だからというもの。食料も確保できるようになったから大丈夫だと断ろうとしたけれど、屋内で眠れるのはこちらとしても都合が良かったから黙っていた。


 目覚めたとき、隣で眠っているはずの鬼の姿はなかった。その姿を探して社を出たると、鬼は鳥居の上で月見酒に興じていた。月光の照らし出す美しい横顔に、私は彼女がこちらに気づくまで見惚れていた。


「ねえ、モモ。ナキ様はすてきな方ね」


 ぽつりと呟くと、山犬が足を止める。こちらを振り向いて、少し困ったように耳を下げている。どうやら山犬からの同意は得られないらしい。


 山犬と鬼の関係があまり良くないということは知っていた。どうやら、出会った日の夜に痛めつけられたことが、山犬の心に深く残っているらしい。当然と言えば当然だけれど、私としては関係の改善を望んでいた。


「ごめんね。でも、ナキ様はきっと優しい方よ」


 かがんでその頭を撫でてやると、山犬はくぅと切なそうに鼻を鳴らした。


 村に到着した私たちは、まっさきに神社へ向かった。夜中ということもあり、村に灯りは見えない。


 短い道のりということもあって、神社には難なく辿り着くことができた。本殿の手前には昨夜と同様、米や野菜が納められている。横長の台の上に規則正しく供えられた作物を見て、私は胸が熱くなる気持ちになった。


「ごめんなさい、みんな。必ずナキ様に届けるから、わけてもらうことをどうか許して」


 私は少しだけ後ろめたい気持ちになりながらも、山のように積みあがっている米をてのひらですくい上げた。社から持ってきた空の瓢箪の、三つあるうちの一つに米を流し込む。もう一つには樽の中の酒を移した。


「モモ、これ、持っていける?」


 台の上から蓮根と山芋を取り、私は山犬を振り返る。山犬は、まかせろとでも言うように小さく鳴いた。それに頷いて、その胴体に蓮根と山芋を一つずつ紐で括る。塩を葉っぱで包んだものも一緒に括らせてもらった。初めは少しだけよろけていたけれど、山犬はすぐにしっかりとした足取りで歩き始めた。


「帰ろう」


 瓢箪を二つ抱え、私は踵を返す。途中井戸に寄って水を汲もうとしたけれど、二つの瓢箪は思いの外重たくて諦めた。


「ナキ様、喜んでくれるかしら。どうせ食えんって、言っていたけど……」


 言いながら、鬼の言葉を思い出す。食べられないということは、口に合わないということだろうか。けれど、私はお供え物としか伝えていない。そこに苦手な食材があるかどうかなんて、彼女にはわからないだろう。


「そういえば、ナキ様って何を食べるんだろう?」


 一月ひとつき程共に過ごしたけれど、鬼が何かを食べているのを見たのは、あの山桃を食べた時だけだ。指を舌が這う生々しい感触を思い出してしまって、一瞬だけ頬が熱くなる。そういえば、あの時の彼女は食べる前に少しだけ戸惑う素振りを見せていた気がする。


 自分で望んでいたし、社に転がっていた瓢箪からは酒の匂いがしたから酒は好んでいるのだろう。けれど、食べ物の痕跡――例えば、動物の骨といったものは見つけられなかった。たまにどこかへ出かける時に済ましているのだろうか。


 私の前では食べられない物を、食べているのだろうか。


 ぞくりと背筋を冷たいものが落ちていく気がして、私は首を振った。


 社に戻ると、鳥居の上には鬼が座っていた。どうやらあそこは彼女のお気に入りの場所らしい。月明りの下、金色の瞳がきろりと光る。


「戻ったか」


 軽やかな動作で鳥居から降りると、鬼は私の横に立った。頭一つ分高いところから見下ろされてどきりとする。彼女は私の抱えている三つの瓢箪のうちの一つを奪うと、その中身をてのひらの上に落とした。さらさらと米が落ちてくるのを見て、下がり気味の眉の片方を引き上げる。


「なんだ、米か。酒はないのか」


 その間に山犬の背から野菜を下ろしていた私は、そばに置いていたもう片方の瓢箪を慌てて持ち上げる。


「お酒はこちらです」

「よこせ」


 瓢箪を交換すると、鬼はそのまま一口含んだ。こくんと白い喉が上下する。唇の端から透明な水が伝い落ちていった。


「うん、酒はいいな。人の血肉よりずっといい」


 満足そうな呟きに混ざった物騒な言葉に、私は反射的に肩を震わせる。盗み見た鬼の視線は未だに酒に注がれていた。なんとなしに言ったのであろうそれを、私はどうしても無視することができなかった。


「……ナキ様は、人を食べるのですか?」


 先ほどよぎった考えを口にする。否定してほしいけれど、もう答えはわかっていた。


「鬼とは人を食うものだろう」


 平然と返された答えに、私は抱えている瓢箪を落としそうになった。なんとか堪えるけれど、代わりに足を少しだけ引いてしまう。


 金眼が私の足元を見た。気づかれてしまったのだ。しかし、鬼は何事も無かったかのようにまた酒を煽る。


「おれはもう食わんがな」


 こくりと喉を鳴らすと、彼女はひとつため息をついてから唇の端を持ち上げる。それはまるで、自嘲するかのような微笑みだった。私はなぜか胸が締め上げられるような心地になる。


「いや、食わんのではないな。おれは人を食えぬのだ」

「それは、なぜです?」


 震える声で尋ねる。知りたいと思った。


「つまらん話だ。語るほどのことでもない」


 ゆるく首を振って鬼は社の方へ向かおうとする。その手を握って、私は静かに引き止めた。語るほどのことではないと言うその声が、どこか切ない響きを持っていたせいだ。


「教えてください。私は、ナキ様のことが知りたいです」


 言ってから、小さな声で「迷惑でなければ」と付け加える。さすがに図々しいかもしれないと、今さら思った。


 鬼の顔を伺うように見上げると、うつくしいかんばせはなんとも言えない表情をしていた。躊躇うような、縋るような表情はまるで親に置いていかれた幼い子どものようだ。日頃から尊大な態度をとる鬼の弱々しいそれに、思わず目を見開く。


 小さな嘆息。金色の瞳が、どこか寂しそうに歪んだ。


「昔の話だ。おれは、陰陽師の男に呪いをかけられた。その呪いは、今も続いている」


 白い指が角を撫でる。紅色に染まる尖端を、赤い爪が弾いた。


「人を食えぬようになる呪いだ」

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