盛夏の章

2-①

 吹き抜けた風が夏着物の裾を揺らす。重く蒸していた日中とは異なり、山の夜風は涼しすぎるくらいだ。夏の盛りとはいえ、山の夜は冷える。傍らを歩く山犬に「寒くない?」と尋ねれば、元気の良い鳴き声で返事をしてくれた。どうやら平気らしい。


 鬼が村に井戸を掘ってから、一月ひとつきが経とうしていた。初夏はもうとっくに過ぎ去り、気づけば日中は蝉の鳴き声が未だ降らない雨の代わりだと言うように降り注いでいる。


 あの後、鬼と共に山の社へ戻った私は、丸二日ほど眠っていたらしい。目覚めた私が最初に見たのは、朝日を背にしてこちらを見つめる鬼の金眼。彼女は私が目覚めたことに気づくと、「泥のように眠っていたな。そのまま死ぬかと思ったぞ」と呆れたように言ったのだった。


 社での生活を始めるにあたり、鬼は意外にもかいがいしいほどに私の世話を焼いてくれた。ずっと眠っていたせいで固まっていた体をほぐしていた私に、彼女はいくつかの着物を投げて寄越したのだ。今着ている藍染の夏着物はそのうちの一つだ。染色された着物など今まで着たことのなかった私はそれを受け取れずにいたけれど、鬼の「その死装束にもならん汚い布切れを着て、おれのねぐらに居座るつもりか?」という言葉に大人しく受け取ることにしたのだった。


 そういった鬼の気遣いに報いるため、私はまた社の掃除を再開することにした。なまっていた体を整えるためでもあるが、そもそも彼女のために私にできることなんてそれしか思いつかなかった。


 ただ、水が使えるようになったことで、社での生活は格段に変わった。水があれば掃除はよく捗ったし、食料も確保できるようになった。夕方頃になると山犬がふらりとどこかへ行き、野兎や鳥、木の実を獲ってくるようになったのだ。村に水が戻ったおかげか、山の動植物が少しずつ増えているらしい。それをわけ合って食べているうちに、痩せていた山犬はしっかりと筋肉を取り戻し、以前よりもよく走るようになった。私自身も体力を取り戻し、一層掃除に精を出すことができた。


 軽い足取りで私の少し前を歩く山犬の、肉付きの良くなった背中を見る。視線に気づいたのか、山犬がこちらを振り向いてまた鳴いた。


 ふと、視界が開ける。頭上を覆っていた木々が途切れ、月明かりが道を照らすようになったのだ。私は今、村の井戸へ水を汲みに行くために、山犬と共に山道を下りていた。


 今までは、私が倒れたときに鬼が掘りあててくれた湧水を使っていたが、それが先日、とうとう涸れてしまったのだ。地下の水さえも涸れてしまったのかと心配する私に、鬼は「浅く掘っただけだから、すぐ涸れるだろうさ」となんてことないように言った。


 幸い、鬼が井戸を掘った場所は村の入り口付近だったため、私たちはすぐにそこへ辿り着くことができた。ただの大穴だったそこは、この一月の間で村人たちによって井戸として整備されていた。水を汲むための釣瓶はもちろん、屋根もついている。


「すごい……立派な井戸になってる」


 感心して見つめていると、山犬が急かすようにひとつ鳴く。それにやっと我に返った私は、慌てて水を汲み上げる作業を始めた。


「あれ、モモ? どこに行くの?」


 井戸で水を汲んでいると、いつもであれば私のそばから離れない山犬がふらりとどこかへ行ってしまった。私は山犬の名前を呼びながらその姿を探す。


 少し前に、森の中で山犬とはぐれてしまってから、私はあの子に名前をつけることにした。何かあったときにすぐに呼べるようにするためだ。山犬は最初こそ首を傾げていたけれど、賢いあの子はすぐにそれが自分の名前だと理解してくれた。三日ほどで、山犬は「モモ」と呼びかければ尻尾を振りながらこちらへやってくるようになった。山桃の実からとった名前だったけれど、気に入ってくれたようだ。


 月明りだけを頼りにその姿を探していると、村の奥へ向かう山犬の姿が見える。慌ててそれを追いかけた私は、そこで真新しい建物を目にした。


「これは、神社……?」


 瞬きをした先には、今まで村にはなかったはずの神社が建てられていた。本殿と鳥居しかないこぢんまりとしたものだったが、それは確かな荘厳さを持っている。


 しばらく神社に見惚れていると、本殿の奥の方から山犬がやってきた。


「モモ……! 心配したのよ」


 膝を折ってその背中を撫でてやると、山犬は一声大きく鳴いて私の着物の裾を咥えた。そのまま裾を引っ張る姿に、私は首を傾げる。まるで「こちらに来い」と言っているみたいだ。


 山犬に引かれるまま本殿の方へ行くと、その手前には村人たちが供えたのであろう食料が置かれていた。わずかばかりではあったが、米や野菜、酒などが供えられている。一か月前までは村娘を犠牲にするほど飢えて追い詰められていた村人たちが、神に供え物をするほどまでに救われている事実がそこにあった。


 吸い寄せられるように供え物に近づくと、そのすぐそばに立て札があることに気づく。


「ああ……」


 小さな子どもが背伸びをして読める程の高さのそれを読んで、私は思わず歓声をあげた。そのまま大急ぎで、けれど物音を立てないように井戸まで戻り、水の入った瓢箪をひっつかむ。小走りで山の入り口まで戻り、私は社までの道を駆け上がった。


 何度か転びかけて、その度に山犬が「気をつけろ」と言うように吠える。「ごめんね」と謝りながらも、私はかまわずに走り続けた。


 もう村からはかなり離れたはずだ。それでも走り続けるのは、早くあの鬼に伝えたいことがあるから。


「すごいわ。すごいことよ、モモ!」


 私は興奮気味に山犬に話しかける。山犬は跳ねるように走りながらひと際大きく鳴いた。


 社の鳥居が見えてくる頃には疲れ果てて足も動かなくなっていた。いつもであれば、ゆっくりと休憩を挟みながら登ってくる山道を一気に駆け上がってきたのだ。当然だろうと思いながら、私は苦笑する。


 もつれる足をなんとか動かして、私は社の扉に手をかける。


「ナキ様、聞いてください! 井戸の近くに神社が出来ていました!」

「……やかましいな」


 喜びのままに社の扉を開けると、小上がりの寝床で横になっていた鬼が不機嫌そうに呻く。


「何の騒ぎだ」


 低い声で鬼が尋ねる。私は上半身を起こしている彼女の傍に駆け寄ると、黄金色の瞳を見つめて微笑んだ。


「村の井戸の近くに、ナキ様を祀る神社ができたんです。お供え物もたくさんあって……ああ、少しわけてもらえば良かった」


 そうすれば、明日の食料の心配をしなくてよくなる。今思い出して、私は少しだけ肩を落とした。


 その間に鬼はむしろの上に座って、寝乱れたざんばら髪をかき上げる。


「社と言ったな。なぜおれを祀っているとわかる?」

「日照りより村を救った山の神を奉る、と立て札に」

「……くだらん。正体を知らぬものを祀ってどうなるというのだ。それに、」


 一度言葉を区切って、鬼はぐっと伸びをした。しなやかに伸びあがるようすは猫のようにも思える。鬼は片膝を立てると、その細めた金色で私を見つめた。きろりと光った目は何とも言えない色を湛えながらも真っ直ぐにこちらを見ている。


「救ったのはお前だ。おれではない」


 静かに響く声。実直な鬼の言葉に、私は自分の心が震えるのがわかった。


 ああ、この鬼はやはり、美しいと。


「……いいえ。救ったのはあなたです」

「わからんな」

「ふふ。お祝いをしましょう。今夜、お供え物を少しわけてもらってきます」

「いらん。どうせおれは食えん」


 ため息に混じりに言うと、鬼は唇を少しだけ尖らせた。


「まあ、酒があれば持ってこい」


 ぼそっと呟くのが思いの外かわいくて、私は思わず微笑んでしまった。

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