閑話

 人など嫌いだ。


 人というのは身勝手で、愚かで、誰かの犠牲の上に立つことしかできない、けだものの名前だ。


 それなのに、この女といったら。


 薄暗い社の中、鬼は自分のねぐらで倒れている少女を見下ろしていた。きっちりと結い上げられていたはずの黒髪は、倒れた拍子に解けたのか、床の上に散らばっている。夕陽の色に染められているせいでわかりにくいが、そのかんばせは死人のように白い。真っ白な掛下着かけしたぎ姿のせいで、その肌の白さはいっそ強調されていた。


「死んだのか」


 鬼は少女の傍にしゃがみこみ、その華奢な体を庇うように立っていた山犬に問いかけた。山犬は鬼の問いかけに呻るのみ。嘆息しながら、彼女は自身の角を撫でる。


 よく耳をすませば、少女からは今にも消えそうではあるが呼吸の音が聞こえてくる。死んだわけではないらしい。しかし、虫の息でもある。


 どうしたものか。鬼はもう一度角を撫でた。


 女自体はこのまま野垂れ死んだってかまわない。もともと邪魔だった。人間などそばに置いておきたくない。けれど、ねぐらで死人が出るのは少しだけ嫌だった。


 近寄ろうとすると、山犬がさらに低く呻る。「煩わしい獣め」と鬼は目を細めた。


「なぜそこまで懐く? お前とて、この女を喰らおうとしていただろう。いい機会ではないか。新鮮なうちに喰らいつけばいい」


 骨ばった獣の体に首を傾げると、山犬はくわっと牙をむき出しにする。名嘉山の獣とはそれなりに意思の疎通ができる鬼だったが、こればかりはよくわからない。飢えているのならば喰らえばいいものを。


「呆れた。山神の眷属たる山犬が、人に手懐けられてどうするというのだ。それに、この女はお前に喰われたところで喜ぶだけだと思うがな」


 フンと鼻を鳴らしてやったが、山犬は変わらない。鬼は元々下がり気味の眉をさらに下げる。


 山犬に喉を晒して笑った女。気色の悪い、自己犠牲をもつ女。少女に対する鬼の評価はその程度だった。だから彼女には、山犬がこの少女にどうしてそこまで懐くのか理解できなかった。


「どうしてお前がこの女にそこまで懐くのか、おれにはさっぱりわからんよ」


 皮肉気味に笑う鬼に、山犬が尻尾を下げる。その目はどこかこちらを憐れんでいるようにも思えて、鬼は困惑をあらわに口を歪めた。そのまま、ちらりと倒れる少女の顔を見る。


 青白い顔。けれど、どこか安堵しているような、危うい表情。こんな気味の悪い女に、なぜ心を許す。


 ――なんて……きれい。


 ふと、鬼の脳裏に少女の言葉が蘇る。獣に襲われている最中、死の淵で鬼の瞳を見た少女の言葉。


 鬼の永い生涯の中で、己の瞳をきれいだと言った人間は、この少女で二人目だった。


 ゆっくりと鬼は少女に近づく。山犬が低く呻った。


「うるさい」


 同じように低い声で呟いてやると、山犬は一瞬だけ怯む。それでも、少女を守ろうとする姿に、鬼は小さく笑った。


「救ってやろうとしているのだ。下がれ」


 静かに、言い聞かせるように言うと、山犬は一度だけ鳴いてから後退る。満足そうに頷いてやれば、三角の耳がくっと下がった。


 少女の頬にかかる黒髪を指先ではらうと、骨ばった頬が見えた。この社で初めて会った夜に触れたときよりもやつれている。あの時も喰いがいのない頬だと思ったが、今はもう骨と皮しかないようだ。


「それでも、美しい顔をしているのだな」


 美しい容姿。それをたてにして傲慢に振舞ったっていいものを、女の吐く言葉はどれもその向こうに他人の存在を感じさせるものだった。卑屈な響きを持つほどに。


「お前が気に入らないよ」


 鬼はゆっくりと少女の頬を撫でる。


 人とは、身勝手で愚かな生き物だ。誰かを押しのけて、その上に立って生きていく醜いけだものだ。


 そのはずなのに。


「お前を見ていると、人間が美しいものに見えてくる」


 それがどうしても、鬼には許せなかった。


「美しいまま、死なせてなどやるものかよ」


 一度身を起こし、鬼は少女の体をひょいと抱きかかえる。吹けば飛びそうなほど軽く、すぐに手折ってしまえるほど細い身体だった。


 社の奥、自分の寝床にしているむしろの上に、鬼はその体を下ろす。そのまま覆いかぶさるようにして、少女のよく整ったかんばせを見つめた。


 白磁の肌。今は不気味なほど青白い。親指でその唇に触れれば、荒れてかさついてた皮膚が指先を刺した。


「……憐れなものだな」


 言いながら、鬼はその唇に静かに口づける。舌で乾いた唇を舐めて、わずかに開いたそこへ舌を分け入らせていく。しっとりと湿った少女の舌に触れながら、鬼は己の精気を少しだけ分け与えてやった。


 ふるりと少女のまつ毛が震える。


 それを見とめてから唇を離すと、少女が「う、」と呻いた。鬼の精気を得て、なんとか命を繋いだらしい。これ以上は、人の身には毒になるだろう。そう判断した鬼は、しかしなんとなく名残惜しくてもう一度触れるだけの口づけを落とした。ふるりと閉ざされた瞼が震える。


「生きろよ、女。そして、おれにお前の心根を見せてみろ」


 きっと、お前の心根だって醜いのだろう。いいや、醜くなければならない。自分はそれを確かめなければならないのだから。


 ほのかに血色の戻った頬に頷くと、鬼は少女の横にごろんと寝転んだ。


 ふと、普段の寝床よりも柔らかい気がして鬼は瞬きをする。てのひらで触れてみれば、ふかふかとした弾力を感じた。どうやらむしろの下に稲わらが敷かれているようだ。少女がそうしたのだろうか。確かに、寝心地がいい。


「ははあ。これはいい」


 いい仕事をするものだ。鬼は少女の骨ばった体を抱きこみながら上機嫌に笑った。

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