1-⑧

 背の高い木々の上を飛ぶように移動しながら鬼は山を下りていく。私は横抱きにされたままその肩にしがみついていた。耳元で風を切る音に怯えながら、彼女の泥だらけの衣をさらに強く握りしめる。そうしていないと振り落とされてしまいそうだった。


「こ、ここです! ここが私の村です」


 声を張り上げると、鬼はきゅっとに足を止めた。耳元で吹き荒れていた風の音がやみ、代わりに歌うような鳥の鳴き声が聞こえてくる。山々の間から差し込んできた朝日が眩しい。見上げれば、彼女は金眼を細めて朝焼けが村を照らすのを眺めていた。


「人里に降りたのは久しぶりだ」


 耳に心地いい低い声が呟くのを聞きながら、私も村を見つめる。


 まばらに並ぶ家々と、それを囲うように広がる田畑。日照りに見舞われていなければ、そこには青々とした野菜や稲が揺れているはずだ。しかし、今は乾いてひび割れた地面が広がっているだけだった。村は人も動物も死に絶えたようにしんと静まり返っている。


「脆いものだ」


 静かに呟く声には呆れとわずかばかりの憐憫が滲んでいるような気がして、私はもう一度鬼を見上げた。一瞬だけ目が合ったような気がしたけれど、鬼は何も言わない。


 彼女は私を太い木の枝に座らせると、「ここにいろ」と言って降りていってしまった。いったいどうやって井戸を掘るのだろうか。私は地面に降りた鬼をじっと見つめる。


 降り立った鬼はそのまま地に伏せると、地面に耳をそば立てるように這いまわっている。ざんばらな長髪が地面に広がるようすはまるで大きな蜘蛛のようだ。確か、鬼は地の下を水の流れる音がしたと言っていた。ああやって水の音を聞いているのだろうか。まったく想像できない感覚に、私はただ鬼のようすを眺めることしかできない。


 しばらくすると鬼が立ち上がる。彼女はぐっと一度伸びをすると、おもむろに土を掘り返し始めた。軽やかな動作で土を掘り起こしているが、そのひとかきの深さは尋常ではない。あれが人外の力だというのだろうか。鬼の姿はすぐに見えなくなってしまった。


 半刻ほど経っただろうか。木の上からでは穴の深さがどれほどなのかもわからない。村人たちが起きてくる気配は未だないけれど、すでに日はかなり高くなっている。そのうち外に出てくる村人がいてもおかしくはないだろう。はらはらとしながら見ていると、ふいに鬼が穴からひょいと飛び出てきた。


「水が出たぞぉ!」

「――えっ」


 思わぬ台詞に声を上げた直後、鬼はひらりと穴のそばにあった高い木の上に飛び移った。


 しばらくすると、彼女の声を聞いたのか、何人かの村人たちがよろよろと家の中から出てくる。彼らは大穴の周りに集まると、一様に声をなくした。騒ぎ立てる元気もないのか、大穴の前に膝をつき、ただ呆然と穴の中を見つめている。


 ひとりの男が立ち上がり、無言のまま家の中へ戻っていく。すぐに出てきた彼の手には、ひもを括った水桶が握られていた。彼は恐る恐るといった様相で、水桶を大穴の中に入れる。そこから汲みだされたものはまさしく水だった。


 男は桶から水をすくい上げ、ゆっくりと飲み干す。


「あ、ああ……ああ、水だ……水が出たんだ……かみさま……」


 掠れた声で紡がれた言葉に、周囲の村人たちが一斉に声を上げた。


「俺にもくれ!」

「アタシも!」

「俺にもだ……! ばあさんが死にそうなんだ!」

「まずは子どもと老人からだ……。早く連れてこい!」


 村人たちはそれぞれの家から子どもや老人を抱え出すと、井戸から汲み上げた水を順番に飲ませた。人々は与えられた水を飲むと、一様に泣いて喜んでいた。歩く気力もなかった子どもが水を飲んで微笑むと、その家族にも笑顔が咲いた。


 静まり返っていた村に、少しだけではあるけれど活気が戻ったような気がする。良かった。私は何もしていないけれど、とにかく良かった。


 村人たちの騒ぎに紛れるようにして、鬼がこちらの木の上に飛び移ってくる。横に腰を下ろしたところで、鬼はぎょっとした様相で私を見た。


「……なぜ泣いている」


 問われた言葉に、私は一瞬戸惑って首を傾げる。その直後、はらりと雫が頬を伝う感覚に、初めて自分が泣いているのだと気づいた。


 鬼はもともと下がり気味の眉をさらに下げて、困惑を隠さないまま私を見ていた。それがなんだか面白くて、私は思わず笑ってしまう。


「ひとは、うれしくても泣くのですよ」


 自覚すると一気に視界が滲んだ。次から次へと涙が零れ落ちていく。ああ、困った、なんて他人事のように思った。ふと、頬に冷たい、しかし柔らかなものが触れる。それは肌を優しく擦ってくる鬼の手だった。どうやら涙を拭ってくれているようだ。


 泥だらけの優しい手。私はそっと手を伸ばすと、恐る恐る彼女の腕に触れた。


 明瞭になった視界で鬼の金眼を見つめる。月明りの下では冷たく輝いていたのに、陽光の下ではこんなにも優しく煌めく金色。この鬼の本質は、いったいどちらなのだろう。


 それでも、村を救ってくれたのは他ならぬ、この鬼なのだ。私は美しい鬼に向かって微笑む。


「ありがとうございます。村を助けてくださって、ありがとう……っ」


 またこみ上げてくる涙に声が震えてしまう。私は両手で鬼の手を掴み、そこに額を擦りつける。その手は泥だらけで、鮮やかな赤に彩られた爪には土や砂利が食い込んでいた。


 この鬼の本質が、穏やかなものであればいい。こんなにも美しい手を、泥だらけにしてまで村を救ってくれた鬼に、私はそう祈らずにはいられなかった。

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