1-⑦
空が白み始めた頃、鬼は静かに社へ戻ってきた。凪いだ動作とは裏腹に、鬼の有り様は散々なものだった。ざんばら髪は乱れ、緋色の地に金糸の牡丹が咲き誇る単衣は泥だらけになっている。
鬼は乱れた髪を煩わしそうにかき上げながらこちらへやってくる。朝焼けの空を背にする彼女の姿は、汚れたものであるのにもかかわらずどこか気高く見えた。
横たわる私の目の前に膝をついて、鬼は器のように重ねた両手を差し出してくる。そのてのひらには、少しだけ砂の沈んだ水が揺れていた。指の隙間から零れた雫がぽとりと音をたてて床に落ちる。久しぶりに水を見た気がした。
「飲まんのか。ああ、その力すら残っていないのか」
目の前に差し出されていた手が離れていく。ほしい。そう思いはするけれど、私はそれを目で追うことしかできなかった。
長いまつ毛を揺らして、鬼がひとつため息をつく。朝日のような金色が揺れていた。
ふと、鬼の手から零れた水が私の頬に落ちた。
その雫はゆっくりと肌の上を伝って唇に触れる。かわいた唇を水が濡らす。舌先に触れたたった一滴の水は、よく熟した山桃の実よりも、甘い。
「――っ」
息をのんだのは、私か、鬼か。
気づけば、私は犬のようにして鬼のてのひらから水を飲んでいた。どこに残っていたのかと思うほどの力で鬼の腕を掴み、白くうつくしい指を舐めるようにして水を啜る。砂混じりの水は口の中をざらつかせながらも、私の喉を甘く潤した。
一滴残さず飲み終えてから、私はやっと顔を上げた。乱れた髪が視界を隠すのを指で払うと、まんまるになった金眼と目が合った。鬼は呆然としたようすで私を見つめている。
しばらく見つめ合っているうちに、私はようやく自分の行動のはしたなさに気づく。かーっと全身の血が喉元に上がってくる感覚に、思わず顔を覆った。
「た、たた、大変っ、失礼いたしました! な、なんてはしたないことを……!」
投げ出されたままだった足を正座の形にたたんで、床に額をこすりつける。正座にするときに関節がぱきぱきと嫌な音をたてた気がするが、なんとか聞こえないふりをした。
盗み見るようにして鬼を見上げると、彼女は未だに丸くした目でこちらを見ている。
「あ、あの……?」
恐る恐る声をかけると、鬼は数回瞬きをして角を撫でた。その瞳は何とも言えない色を含ませて宙を見ている。
「ああ、良い、許す。これも食え」
鬼が差し出してきたのは山犬が持ってきた山桃だった。受け取ると、社の隅にいた山犬がひとつ吠える。まるで自分が採ってきたのだと主張するような鳴き声に、私はくすりと笑った。
「ありがとうございます。あなたも、ありがとう」
枝から実をとり、赤黒い実に齧りつく。甘酸っぱい果汁が口いっぱいに広がって、ほうと息をついた。
「おい、それはなんだ」
言いながら、鬼がこちらの手元を覗き込んでくる。彼女は私の横にくっつくようにして腰をおろした。興味津々といった様子で金眼を揺らすのが子どもっぽくて、私は思わず微笑んでしまう。
「これは山桃の実です。よければいかがですか?」
「いや、おれは……いや、うん……」
何か言いかけてから戸惑いがちに頷いた鬼に、まだ手つかずのものを差し出そうと山桃の枝に手を伸ばす。しかし、彼女は私の手をぐっと引くと、半分ほど齧った山桃をぱくりと指ごと口に含んだ。
「なッ、は……? え、ぇ……っ!」
突然のことに一瞬何が起きたのかわからない。それでも、口からは意味不明な言葉が出てくるものだから不思議だ。
指先を熱くて柔らかいものが包む。鬼は舌を使って私の指から果実を絡めとると、こくこくと頷きながらそれをゆっくり飲み込んだ。白い喉が上下する刹那、金眼がきろりと揺れる。
「……甘いな」
真っ赤な薄い舌がぺろりと私の指に伝った果汁を舐めた。目を伏せながらぽつりと呟いた鬼は、最後に口の端を舐めると薄く微笑んでみせる。冷たいかんばせが花のように綻ぶようすは、私に視界がくらくらと回るような錯覚を与えた。
なぜこんなことになっているのだろう。今の彼女の姿は、出会った日の夜に見せた狂暴なさまとは似ても似つかない。それに、なぜ彼女はくだらないと一蹴した人間を救うような真似をしたのだろうか。そもそも、あの水はどこから持ってきたのか。
――そうだ、水だ。忘れかけていた役目を思い出し、私は弾かれたように鬼を見つめた。
この水が村まで届けば、村人たちはきっと喜ぶだろう。私の役目も果たせる。
「あ、あの……先ほどの水は、いったいどこから持ってきたのですか?」
「川はお前が言ったように涸れていた。土の下を水が流れる音はしていたから、少し掘っただけだ」
「掘った……? 土の下を……」
鬼の答えに私は希望と絶望を両方突きつけられた気分になった。
地の下の水は生きているのだ。それならば、井戸を掘ればきっと水は出るのだろう。しかし、村の井戸はすでに涸れていたはずだ。ということは、今ある井戸よりもさらに深く土を掘らなければならない。そんな体力や気力は、今の村人たちには残されていないだろう。絶望は瞬く間に希望を包み込んで隠してしまう。結局、どうしようもないのだと。
肩を落とす私の頬をそばに寄ってきた山犬が舐める。「慰めてくれるの」と山犬を撫でる私の横で、横で鬼が「ふむ」と呟いた。
「ははあ、お前は雨乞いの生贄としておれに捧げられたのだったな」
「ええ。……ですが、あなたはいらぬとおっしゃいました」
「実際いらん。だが……うん、いいだろう。女よ」
呼ばれて、私は顔を上げる。鬼は黄金色の瞳を三日月のように細めていた。
にやりと唇を歪めて、鬼は言う。
「お前の村に井戸を掘ってやろう」
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