1-⑥
あたたかなものが唇に当たった。また山犬が顔を舐めているのだろうか。ぺろりと唇を一度だけ舐めて、その感触は離れていく。名残惜しさを感じながら、私はゆっくりと目を開けた。
周囲は薄暗い。夜になったのだろうか。すんと鼻から息を吸えば、稲わらと甘い香の匂いがした。けれど、わらの上に寝ているようなちくちくとした感触はしない。どうやら私はむしろの上に横向きで寝かされているらしい。背中にはあたたかな体温を感じる。きっとあの山犬が寄り添って眠っているのだろう。
もう少し周囲の様子が知りたい。私は体を起こそうとして、ぴくりとも動かないことに気づく。そういえば、社の掃除中に倒れたのだった。
「……まだ、生きてる」
これで何度目になるだろうか。呟いた声はひどく掠れていた。
ろくに食べていない体で山を登り、そのままほとんど飲まず食わずで社の掃除をして、よくこれまでもったものだと自分に感心してしまう。それと同時に、いつまでこうしているつもりなのかと自嘲した。いっそ舌を噛んでしまいたいけれど、それすら死にかけている体が許してくれない。
「ははあ、随分と残念そうな声で言うのだな」
愉快そうな低い声が耳元で響く。悲鳴を上げる間もなく、背後から伸びてきた白い手が肩を掴んで体を乱暴に反転させた。
視界いっぱいに広がる黄金色。あの鬼の瞳だ。白いかんばせに浮かんだ二つの金色は、三日月のように細められている。
「……きれいな金色」
あまりにも突然のことに混乱した頭は、私に見たままのことを呟かせた。まるで子どものような感想を投げられた鬼は、細めていた目を丸くしてこちらを見つめている。
「あ、」
我に返った直後、カッと顔にのぼってくる熱。きっと耳まで真っ赤になってしまっているのだろう。それも含めて恥ずかしくて、さらに熱くなる。顔を隠したかったけれど、やっぱり腕は動かなかった。せめてもと、私は顎を引いて目を伏せる。
視線の先には鬼の白い喉が見えた。私を抱き込むようにして鬼が添い寝していている。背中に感じた体温は、山犬ではなく鬼のものだったのだ。だとしたら、ここはあの社の中なのだろうか。
しばらく俯いていると、ふいに伸びてきた鬼の手が私の背中を撫でた。思いのほか優しい触れ方に、私はぱちりと瞬きをする。
「なぜ倒れていた? なぜ死にかけている?」
静かに鬼が問いかける。顔を見たくて顎を上げようとしたが、それを禁じるように背中の手が抱き寄せてきた。白い首筋に鼻先が埋まる。
人間はわけがわからなくてどうしようもなくなると、一周まわって冷静になるらしい。私は深く息を吐いて気を落ち着かせた。
「……人は、飲まず食わずでいると死ぬのです。私はもう三日以上も飲まず食わずですから、倒れるのも、死にかけているのも、当たり前なのです」
「脆いな」
「そうですよ。人は、脆いのです」
目を閉じる。鬼の首筋に鼻先をすりつけると、獣の匂いと甘い香の匂いが混じったような香りがした。
「……だからこそ、村娘を生贄にしてまで雨を乞うのです。水がなければ――作物が育たなければ、人は生きてゆけないのですから」
言いながら、私はこころが空っぽになってしまうような気持ちになった。人とはなんて脆く、なんて身勝手なのだろう。あの夜の鬼が言っていたとおりだ。
大勢が生きるためにたったひとりを犠牲にすることをいとわない。犠牲にするという決断を英断だと祀り上げ、それが愚かなことだと誰も指摘しない。犠牲になるひとりですら、村のために死ねることが名誉だとのたまう。狂気の沙汰としか思えない。そんなことに、いままで気づかなかった私も狂っている。けれど、それほどまでに、私たちは追い詰められていた。目頭が熱いのに、涙が出ないのが苦しい。
「脆くて、愚かで、身勝手で……それでも」
瞼の裏に浮かぶのは、村で過ごした日々の思い出。春に畑を耕して、夏に種をまき、秋に実ったものをみんなで分け合う。ささやかな暮らしだったけれど、人も自然も輝いていた。冬は静かな中をじっと耐えて、たまに見える晴れ間は村人総出で雪かきをした。自然の音がなりを潜めた中、人の笑い声だけが響くのを不思議な心地で聞いていたのを覚えている。
どんなに愚かで身勝手な選択をしてしまったとしても、それでも、私はあの村が好きだった。あの村の人々に恩があった。
「その生き方は、狂おしいほど……うつくしいと、私は思います」
たとえ無意味な犠牲になってしまうとしても、あの村のために何かをしたい。自分を育ててくれた人たちのために、何かをしたい。その思いだけでここまできた。大切な家族が生きるために。大切な故郷を残していくために。
だって、そうしたいと思うほど、私はあの村から幸せをもらったのだから。
震える背中に触れていた鬼の手が私の後ろ頭を撫でた。さらりと髪を梳くように流れていく指先に、また瞼が熱くなる。
「……そう、か」
ぽつりと呟いたかと思えば、鬼は立ち上がって社の外へ出て行ってしまった。あたたかな体温が離れていくのが少しだけ寂しい、なんて。
置き去りにされた私は、鬼が開け放ったままの社の扉から外を眺めることにした。外は社の中と同様に薄暗い。ふと、社の入り口から山犬がひょこりと顔を覗かせた。口には三つほど実をつけた山桃の枝を咥えている。
「あなた……!」
生きていたのか。私はほっと安堵する。
山犬は恐る恐るといったようすで社の中に入ってくると、私の顔の匂いを嗅いでからその鼻先を頬に擦りつけてきた。
「来てくれたの……?」
問いかけた声は聞き取れないほど掠れていたが、山犬はうれしそうに尻尾を振ってくれた。その拍子に、口に咥えていた山桃がぽとぽとと落ちてくる。山犬はそれと私を交互に見て、ひと際大きく鳴いた。まるで食べろと言うかのようだ。
「食べていいの? ありがとう。でも、ごめんね。体が動かないの」
赤黒く熟した山桃は、一口かじれば甘い味が口いっぱいに広がるのだろう。以前食べた山桃の味を思い出して、自然と喉が鳴った。食べたいけれど、やはり腕は持ち上がらない。
ごめんねと囁くと、山犬は耳をぺたりと下げて鼻を鳴らした。
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