1-⑨

「澄子……」


 聞きなれた声が自分を呼ぶのを聞いて、私は反射的に顔を上げる。気づけば、活気に溢れていた村人たちは静まり返っていた。穴の周囲にいる人々は皆一様に、うずくまる男を見つめている。その男は、紛れもなく私の父だった。


「すまない……! すまない……ッ!」


 地に伏して泣く父の姿に息をのむ。父は私の名前を呼んではただひたすら、謝罪の言葉を繰り返していた。


 しばらくすると、周囲からすすり泣く声が聞こえ始めた。父を取り囲む人々の中に、つられて泣き出す者が出始めたのだ。彼らは皆、亡くした娘を悼む父親の姿に涙していた。


「この水はきっと、澄子のおかげなんだろうな」

「スミちゃん……山の神様に気に入られたのかねえ」

「いい子だったからなあ……」


 村人たちは口々に言いながら父の背を撫でている。


 こんなの、見たくない。そう思う自分がいることに気づいて、私は一気に涙が涸れていくような気分になった。


「……あの人間どもは、お前のことを言っているのか」


 すいと顎を持ち上げる指先。されるがままに鬼の方を向くと、彼女は金色の瞳に憐れみを滲ませながら私を見ている。


 そんな目で見てほしくない。私はざわつく心を押し殺しながら頷く。


「見ろ、あの身勝手な人間どもを」


 鬼は私の顎をぐっと掴むと、村人たちの方を向かせた。私はまたしてもされるがまま、父の周囲に群がる人々を見させられる。彼らは未だに、憐れみの言葉と視線を父へ浴びせていた。


「お父さん……」

「ははあ。あの男はお前の父親か。お前の父親はせっかくお前が与えた水を飲もうともせず、地に伏してお前に詫びているぞ。その周りには娘を失った父親を憐れむものどもが蟻のように群がっている。お前が与えた水を飲みながらな」


 ――澄子。また父が私を呼んだ。悲痛に満ちた声。


「見ろ、あの身勝手なさまを。犠牲を悔いているものを前にしてもなお、己を正当化する醜悪さを! 女よ、お前はそれでも」


 吠える鬼の声はどこか遠くに聞こえた。私はただ食い入るように父を見つめることしかできない。


 泣かないでよ、お父さん。今すぐその水を飲んでしまってよ。じゃないと――


「それでも、」


 ――じゃないと、私が死んだ意味がないじゃない。


「あの生き方をうつくしいと言えるのか?」


 冷たい声が、問いかける。


「もうやめてよ、父さん!」


 刹那、村中に響くような声に私ははっと我に返った。


 見れば、父のもとには一人の少女がその背に縋りつくようにしてうずくまっている。少女は華奢な腕で父を立ち上がらせようとしていた。あの子は、涼子だ。私は鬼に「妹です」と掠れた声で伝えた。


「姉さんのことはもう忘れてよ! 早く水を持ってかないと、母さんもいなくなっちゃうよ!? ……姉さんみたいに!」

「涼子……」


 ゆっくりと顔を上げて、父が妹を見る。頼りなく娘を見つめる父に、妹は肩で息をしながらも静かに告げた。


「生きなきゃいけないんだよ。姉さんのぶんも」


 ああ、神様。私は両手で顔を覆った。瞼の裏がどうしようもなく熱い。


 うずくまっていた父が立ち上がる。父も妹も泣いてた。私も、泣いた。


「あたしたちが死んじゃったら、姉さんがどうしていなくなったのか、わからなくなっちゃうでしょ……」


 涼子の言葉に全身が震える。彼女の言葉は、私の乾いた心に沁みこむようだった。私の飲み込んだ気持ちを、妹がすくい上げてくれたのだ。どうして私を憎んでいた妹が、私の気持ちをわかってくれるのだろうか。わからないけれど、私が妹の言葉に救われたのは事実で、とにかくそれがうれしくてたまらない。


 その反面、心の奥底に沈めていた罪悪感が浮き上がってくるような思いにもなってしまう。生贄となって村を救いたいという気持ちは本心だ。けれど、私は心のどこかで、この村から逃げたいと思っていたのも本当だったから。


 本当であれば、孤児みなしごである私はこの村にはいない存在で、私さえいなければ、妹はきっと村一番の器量よしの娘になっていたはずだ。私が涼子の人生を狂わせた、なんていうのはおこがましいけれど、でも、きっと、その一因にはなっているのだろうとずっと思っていた。


 私はずっと、逃げたかったのだ。


「そうだな。ごめんな……ごめんな、涼子」

「いいから、父さん。お水、持って帰ろ? 母さんが待ってるよ」


 薄氷のように脆い、しあわせから。


 父と妹は水を掬うと、二人で連れ立って家へと帰っていった。静まり返っていた村人たちも、それに倣うように帰っていく。井戸の周りには、やがて誰もいなくなった。


 ――あの生き方をうつくしいと言えるのか?


 鬼の問いかけに、私が返すべき言葉はわかっていた。最初からわかっていたのに、戸惑ってしまったのは、私の心根に罪悪感があったから。


 私は隣に座る鬼を見つめる。そっと鬼の手を握り、私はなるべく穏やかに見えるように笑う。彼女の金眼は戸惑いを滲ませながら揺れていた。


「それでも、人の生き方はうつくしいと、私は思います」


 自分に言い聞かせるような声音だった。事実、今の言葉は私の願望だ。人の生き方は美しいと思う。美しくあれと思う。そうでなければ、私たちはあまりにも憐れだ。


 美しく生きる村人たちが好きだ。育てた穀物を分け合う姿が、寒さに身を寄せ合って耐える姿が、なによりも美しいと思う。春に喜び、夏に働き、秋に安らぎ、冬を耐える、そんな人々が愛しいと思う。


 だから、私は彼らを救いたいと思った。逃げたいと思った。彼らが信じる、美しい私のまま、消えてしまいたいと思ったのだ。


「生きねばなりません。何を犠牲にしても、どれほど醜くても、人は生きるしかないのです。そうやって一生懸命に生きることは、」


 例え一人の村娘を犠牲にしたとしても、その家族に悲しみを強いたとしても、そうまでして生きたいと願う人々を、私は――


「何よりも尊くて、うつくしいと思うのです」

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